忘れることも
御仏のみ名なかりせば かかる時
ただ泣くのみの わが身ならまし
という和歌がございます。
阿弥陀様の名号がなければ、御念仏できずに、ただ泣くばかりで終わっていただろうという意味であります。
み仏の 御厨子(みずし)の うちぞ
人知れぬ 我が悲しさの 捨てどころなる
の和歌を紹介しましたが、御仏様にさまざまな苦しみ悩みを聞いてもらってきたのでしょう。
その甲斐和里子さん、次のような述懐がございました。
皆さんはどうか存じませぬが、私は毎夜御飯のあと今日一日の自分の行為を反省して、
過失のあった時は「これほど御育てにあづかりながら、久遠このかたの悪癖がまだ捨たりません、おゆるしくださいませ」と御詫の御念仏を称へ。
又何等不調法もしいださず、些細なことながら人さんを喜ばしておあげした、と思はるるやうな時は
「私の力ではございません、汚れた私の心中におはひりくださつてある浄らかな御法のおはたらきでございます。有難うございます」
とお礼のお念仏を称へますのですが、どうもお礼念仏よりお詫念仏の方が数が多くなりがちでお恥かしいことでございます。
というものであります。
御念仏の真摯で謙虚な姿勢がうかがわれます。
こういうところは、禅なども見習わなければと思います。
ただ、ここで大事なことは、反省して仏様にお詫びすれば、それで終わりになるということです。
原因を明らかにして、反省すべきことを反省し、お詫び申し上げたならば、その後いつまでも悔やんだり、愚痴をこぼしたりすることをしないのです。
憂き事のたえぬ世なれば 来しかたの
うきごとだにも とく忘れてむ
という和歌があります。
辛いことの絶えない世の中だから、今まで経てきて辛いことも早く忘れてしまおうというのです。
家庭内の苦しみを訴えてきたご夫人への甲斐和里子さんの手紙のなかに、
「仏教に育てられて居る私達は絶望の淵に到達せぬうちクルリと身をかわし、立ち直る方法を知って居る」
と書かれています。
こちらの落ち度を反省し、お詫びしたならば、クルリと身をかわして立ち直るというのです。これが忘れるということでしょう。
こういう事も手紙に書かれていました。
「ダメと定まった事柄のためにグヅグヅ費やしてしまうては、如来様に対しても申し訳のないことでございますが、第一自分自身に対しても相すまぬことと存じます」
と書かれています。
いつまでも引きづらない生き方であります。
そういうことの繰り返しが
岩もあり 木の根もあれど さらさらと
たださらさらと 水の流るる
という生き方になるのだと思います。
(文中の引用は『甲斐和里子の生涯』(自照社出版)から)
横田南嶺