安心
鈴木大拙先生の『禅の思想』には、達磨大師の著作と伝えられる『安心法門』について書かれています。
文字通り「安心」について説かれた書物です。
私たちが学ぶ禅の書物『無門関』には「達磨安心」という問答もございます。
こちらは、禅の世界では有名な問題ですが、達磨大師に、その教えを受け継ぐこととなる慧可が教えを乞うのです。
達磨大師が、少林寺で専ら壁に向かって坐禅し続けているところへ、慧可が訪ねてゆきます。
はるばる道を求めてきたのに、達磨大師は壁に向かったままでこちらを振り向いてもくれません。
とうとう雪が降って膝のあたりまで雪に埋もれてしまいました。
それでも雪の中を立ち続けていました。
ようやく、何をしに来たかと問う達磨大師に、私は真実の教えを求めてきましたと答えます。
それに対して達磨大師は、古来道を求める為には命をかけてやってきたのだ、あなたのように軽はずみな心で道を求めても無駄だと突き返します。
そこで、慧可は自らの左の臂を断ち切って決意を示したのでした。
それでやっと達磨大師から認められて問答をしました。
慧可は、私の心が安らかではありません。どうか安心させてくださいと申し上げます。
達磨大師は、それでは、その安らかでないという心を持って来いと問われます。
慧可は、その心を探してもどこにもありませんと答えます。
それを聞いた達磨大師は、あなたの心を安心させ終わったぞと言ったという問答なのです。
この問答については、円覚寺の夏期講座が今年は中止になりましたので、もうすぐそのかわりに動画で、この無門関のお話をさせていただく予定です。
五月の三十日に配信するつもりです。
さて鈴木大拙先生が、『禅の思想』のなかで、
「安心の熟字は何時頃から始めて用いられたかは、自分のよく知らないところであるが、これは能く宗教の最終目標を指示して居る。
心がその真実体において捉へられない限り、人間はいつも不安の状態におかれる」
と説かれています。
「安心」すなわち心が安らかになっていることが、宗教の最終目標だというのです。
この「安心」が得られないと、いつも不安のままだというのは、その通りであります。
更に「人によりては此不安性を十分に自覚せぬのもある。
しかし自覚がないと云って、不安はないとは云へぬ。
その証拠には、此種の人々の感覚性生活は極めて索莫なもので、何かにつけおぢけがちである」
「索莫」とは、物寂しい様子をいいます。
この不安なことに気がついていない者も多いのです。
気づいていないけれども、やはりつねに何かに怖じけながら暮らしているのです。
おどおどしたところがあるというのです。
慧可はこの心が安らかではない、自分は本当に納得できていない、これでいいはずはないということを真摯に受けとめて自覚していました。
これは求道において最も大切なところです。
大拙先生は、「源が静まらぬと、その末は自ら乱れがちならざるを得ぬのである。心はその根源において落ちつかなければならぬ」
と説かれます。
心のおおもとが落ち着いて静まっていないとなりません。
お釈迦様の言葉と伝えられる法句経にも、
底深き淵の、
澄みて静かなるごとく、
心あるものは、
道をききて、
こころ安泰(やすらか)なり。
とございます。
大拙先生も「石が大地にその腰をすゑたやうでなければならぬ」と表現されています。
このことを実地に行うのが坐禅そのものです。
石が大地に腰を据えたようにどっしりと坐るのです。
坐って更に「さうしてこの心の石は、大地の底に深く深くその根を下しておかなくてはならぬ」のであります。
そこで更に「心とはそもそも何か」と究明してゆくのであります。
大拙先生は、この心を二種類に分けて説かれています。
このことについては、次回に考察してみます。
横田南嶺