安心 その二
「仏教的な考え方では、人間はそもそも健康な存在ではありません。
人間は生まれたときから四百四病を体の中に抱えこんで持って生まれてくるのです。
つまり、人間は本来、病気と共にある存在であると言っていいでしょう。
禅では病気のことを〈不安〉と言うそうです。
「老師不安」と言うと、老先生は病気でございます、という意味です。
不安というのは、要するに体調が不安定になり、バランスが崩れることによって、四百四病が表に出たということなのではないか。」
というのです。
たしかに私どもでは、今でも病気の事を「四大不調」や「不安」と言っています。
「四大不調」とは地水火風の四つの元素のバランスが崩れていることです。
更に五木先生は、
「これまでの近代医学では、外側に病気の原因がいろいろあって、そういうものが人間に悪さを仕掛けてきて、それに攻められて病気になったと考えています。
ですから、それをやっつけていこうという非常に戦闘的な考え方です。戦う、勝つなんていう戦争用語がやたらと出てくる。
ですから、治癒に対する考え方も違います。
私は、いま、人間が持っている全体性みたいなものを、もういっぺん発見し直さなければならないのではないか、と考えるのです」
と指摘されています。
今読んでも考えさせられます。
ウイルスなる悪者をやっつけていこうと私達は思っています。
果たしてそれだけでいいのでしょうか。それとはまた別に、人間全体の体のバランスを取っておくということは重要なことであります。
さて、安心について、昨日の続きですが、鈴木大拙先生が、
「安心」こそは、「宗教の最終目標」
だと言われていました。
心を「石が大地に腰をすえたように」落ち着いて、安らかでないといけない
と説かれていました。
そして、その心に二種類があるということでした。
第一の心は、私たちが普通意識と言ってるところのもので、自分を中心にして外の物を見ているこころであります。
この心は、外界のすべてのものを他のものと区別し、差別して見ている心であります。
学問や勉強をすることもみなこの心によって成り立つものであります。
経済の発展などもそうであります。
区別や差別からは、競争の原理が生まれます。
そして、それは悪い方向に働いてしまうと、暴力や戦争などにもなりかねません。
もう一つの心は、無心の心だと大拙先生は説かれています。
無心とは無分別の心でもあります。分別しない、差別をしない心であります。
これは仏心といっても同じなのであります。
盤珪禅師が、不生の仏心を説明なさるときに、聞こうとしなくても外の雀の声が聞こえるというのがそれだと説かれていますが、無心に聞いていて一切の判断も区別もしていない心であります。
有心の心、差別の心では、雀を他の物と区別して、どんな雀かと区別し差別して分析するのであります。
無心の心では、ただ聞こえるままなのであります。
坐禅はこの無心の心になるのです。
いや、「なるのです」と言ってしまうと既に有心になってしまいます。
「無心になろう」ということ自体がはからいであり、差別の心なのです。
ではどうしたらいいか、ひたすら坐禅をするしかないと説かれるのですが、私はなにも差別のない世界に触れましょうと申し上げたいのです。
新聞テレビ、報道、目に触れるもの、耳に入るもの、分別差別の世界ばかりです。
しかし、お日様の光は、まったく分別の差別もしないのです。無差別、無分別のはたらきそのものなのです。
空気もそうです。どことどこを差別して空気があるということはありません。
川の流れもそうです。
鳥のさえずりもそうでしょう。
そうした無心のはたらきのものに、ただ、無心に触れているのが一番です。
坐禅している時に呼吸に集中するのもそういう意味があると思います。
有心で、呼吸法を頑張っていると尊いように思いますが、やはり有心であり、分別の世界であり差別の世界なのです。
ただ無心に外の空気に包まれて、無分別のはたらきで外の空気を中にいただいている様子をただ無心に眺めているのがよろしいと思っています。
無心の心こそが、「安心」なのです。
赤ん坊が母親の胸に抱かれている様子などは、無心そのものです。
だから無心は難しいと思うかも知れませんが、誰しもみな出来ていたのです。
今失ってしまっているだけなのです。
横田南嶺