野の花
二十一日の日経新聞の朝刊コラム「春秋」に聖書の言葉が引用されていました。
ナズナやタンポポを含め、この時期に咲くかれんな姿を見るたび、造形の妙や生命力の強さに感じいる。
聖書で神の愛を説くイエスが「野の花を見よ」と呼びかけたわけも、信仰心が薄い身ながら納得できる気がするのである。
「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」
こういう記事を拝見すると、なんといっても坂村真民先生を思います。
真民先生に「野の花」と題する詩があります。
わたしが愛するのは
野の花
黙って咲き
黙って散ってゆく
野の花
とりわけタンポポの花を愛されたことは、小欄でも紹介した通りであります。
さらに同じ日の読売新聞の朝刊コラム「四季」には長谷川櫂先生が、
こんなにも花咲くことのくるしくて苦しきゆえに咲くのか花は
という村松正直さんという方の和歌を紹介されていました。
この和歌に対して、長谷川先生は、
「花は喜び、だから花は開く。この歌はその常識を逆転することによって花の心の深層に迫ろうとする。同時にそれは人のことでもあるだとう。」
と書かれています。
一輪の花開くのも、なんの苦労もなく咲いているのではないのでしょう。
与えられた場所で、愚痴をいわずに大地に根を張って、養分を吸って、光に向かって懸命に芽を伸ばし、精一杯の力を発揮して咲いているのでしょう。
それゆえにこそ、真民先生の次の詩がより一層深く味わえます。
花
花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びだけが残るのだ
横田南嶺