終わりのない精進
二月二十六日の小欄で坂村真民先生の詩「深さ」を紹介しました。
深さ
深さには
限度がない
限度がないから
これでいいという
ゴールもない
終わりのない求道
終わりのない精進
これが真民の
信と信仰
これは『坂村真民全詩集』第六巻にあるものを引用しました。
私も、最後の行の「信と信仰」という言葉に違和感を抱きましたが、全詩集にある通りに書いたのでした。
すると、坂村真民記念館の西澤孝一館長から有り難いご指摘をいただきました。
西澤館長の仰せには、
「信と信仰」の言葉が、私としてはしっくりこなかったので、この詩を作った日の「思索ノート」を確認したところ「信と信仰」ではなく「詩と信仰」と書いてあるのを発見しました。
ということでした。
膨大な思索ノートを調べられるのは大変な作業だと思いますが、これによって全詩集にあるのは、間違いだということが判明しました。
そこで下記の通りに訂正しておきます。
深さ
深さには
限度がない
限度がないから
これでいいという
ゴールもない
終わりのない求道
終わりのない精進
これが真民の
詩と信仰
誤植のない書物はないと言われますように、全詩集とはいえ、誤植や錯まりはあるものであります。
とりわけ、真民先生は詩人として一字一句をゆるがせにせず、厳密にお使いになっておられますので、引用する場合にも慎重を期さねばなりません。
改めて西澤館長のご親切に深謝します。
おりから、『修身教授録』を輪読していて、昨晩は「良寛戒語」の章を学びました。
良寛さんというと、森信三先生も、
「大抵の人がすぐ童心ということを考えて、子供たちと一緒にひねもすスミレをつんで遊ぶ姿をおもいだすようです。」
と仰せになっているように、子供と戯れる無邪気なお姿を思いうかべます。
しかし森先生は
「その晩年の円熟境を単に外側から眺めて、思いをその修業期の工夫の上に致さない者は、良寛の童心などと言っても、
これを甘く解して、その背後に湛えられているものの深さを知らない人々です。」
と仰せになっています。
そこで森先生は、良寛さんがお若い頃いかに厳しい禅の修行を積まれたか、
そして戒語という九十箇条にものぼる言葉の戒めを自らに課しておられたことを紹介されているのです。
森先生は
「菊の花の美しさを真に味わうのは、自ら菊をつくっている人たちです。
そして素人は、花が咲かなければ目をとめないのですが、自ら菊をつくっている人は、菊の生長して行くあらゆる段階において、心を楽しませているようです。
すなわち芽生えのうちから、すでに、秋の花のよしあしを想定するのです。
げに愛あるものは、葉のうちにすでに花の盛時を想い浮かべているのです。」
とお示しくださっています。
単にできあがったものだけを眺めているようでは駄目で、そこに到るまでにどれだけの苦労があったかを思い知ることが大切なのです。
真民先生の詩にしてもしかり、美しい言葉が綴られていますが、その背景にどれだけ深く、そして厳しく自己を見つめ続けられているかを考えることです。
「深さ」の詩も真民先生が八十才の時の作だそうです。
御年八十才になってもなお、「終わりのない求道、終わりのない精進」と自らを鞭打たれる姿を想うと身の引き締まる思いです。
横田南嶺