仁王様の手の平のように
掲示板の詩は、
深さ
深さには
限度がない
限度がないから
これでいいという
ゴールもない
終わりのない求道
終わりのない精進
これが真民の
信と信仰
というものです。
この詩の最後の二行を省略して書いたものです。
坐禅の道も、深いもので、限りがありません。
これでいいというゴールもない、終わりのない求道そのものです。
佐々木奘堂さんが、坐禅の足について、「ゆがまない足で」とよく表現されます。
大地を蹴るような力強い足でないといけないというのです。
足首が、しっかりと大地を蹴るようにするのです。アキレス腱に皺がよっているようではだめだと言われます。
坐禅の時には、気海丹田腰脚足心に気を満たすと説かれています。
また、頭のてっぺんから足の先まで気を満たすとも説かれます。
足心という足の裏で呼吸をすることも説かれています。
しかしながら、結跏趺坐を組んでいると、どうしても足の裏までは意識がゆきにくいと感じていました。
奘堂さんの教えのおかげで、足の裏にまで十分意識され、気が満たされるようになってきました。
そんな時に、先日宇和島の大乗寺で河野徹山老師から、土佐の護国寺の増井玄忠師の追想集をいただきました。
増井玄忠師は、山本玄峰老師のもとで修行された禅僧です。
土佐の護国寺に住されながら、毎日朝晩に坐禅会を休まず続けられ、
三島の龍沢寺で一月に行われる臘八大摂心には、土佐から駆けつけて必ず一週間詰めておられた古仏です。
その玄忠師の追悼集に、こんな言葉がありました。
「気海丹田、腰脚足心というてな、ここに気を集めるように坐るんじゃ。
すると足の裏が仁王様の手の平のように、ぐーっと反り返ってくる。そうなるように座りなさい」
というのです。
足の裏が仁王様の手の平のように反り返るとは、奘堂さんの教えられる足と同じことだと思いました。
やはり、そうだと深く納得したのでした。
これでないと、足の先まで気を満たすことも、足の裏で呼吸することもできません。
思えば、中学生の頃、目黒絶海老師に初めて参禅して公案をいただいたときに、老師が、公案は頭で考えてはいけない、足の裏で工夫するのだと教えてくれたのでした。
当時は、足の裏でどうやって工夫するのか、分かりませんでしたが、修行するうちにだんだんと足の裏が大切だとわかってきました。
坂村真民先生もまた足の裏を大切にされた方であります。
横田南嶺