道、遠からんや
毎月湯島の麟祥院で、駒澤大学の小川隆先生に『臨済録』の講義をしていただいて、勉強を続けています。
かれこれ四年以上経ちますが、いつも懇切丁寧に解説いただいています。
小川先生は、毎回同じことの繰り返しだと言っておられますが、こちらは既に頭脳も古びていて以前一度聞いたことでも記憶が薄れていますし、また同じ内容であっても聞くたび毎にこちらの学びが深まります。
また拝聴していると、小川先生の言葉による説明の見事さに、感服しています。
たとえば、先日も「百パーセントの正しさは人の心を呪縛する」と仰せになっていました。
禅語の「一句合頭(がっとう)の語、万劫の繋驢橛(けろけつ)」の、解説なのです。
これこそが絶対的な真理であるというものを、人は求めたがるものです。
それがどこかにあると思って探し求めるのでしょう。
しかし、禅の教えは、そんな百パーセントの正しさから解放するものです。
そんなものをあちこち求めまわっても無意味だと説くのです。
「道、遠からんや」(『肇論』)であって、真実の道は遠くにあろうのだろうか、遠くにあるのではないと言います。
「事に触れて真なり」(『肇論』)であって、日常の一つ一つの事象にこそ真理があるというのです。
仏なるもの、絶対的なものがどこかに存在すると思って求めることが、迷いなのです。
このこころが、この体を使って働いている日常の一つ一つの営みにこそ、仏が現れているのです。
仏というと、まだ遠いことのように感じるかもしれません。
たとえば、「幸せ」について考えてみると、身近に感じられるでしょう。
これこそ完全なる「幸せ」がどこかにあるのではないのです。
毎日の些細な、日常の何気ない営みの中にこそ、「幸せ」が光っているのです。
そんな道理を、心こそ仏である(即心是仏)とか、日常のありのままこそが道である(平常心是れ道)と説いているのです。
実は意外と、禅の道は、近くにあるのです。
横田南嶺