待つこと その2
待つことは信じることでもあります。
例えば、誰かと約束して、待ち合わせ場所で待っているということは、相手が来てくれることを信じていることにほかなりません。
『法華経』に長者窮児の喩えがあります。
長者の子供が、幼い頃から家を出て、流浪の暮らしを送っていて、長じて後たまさか父である長者の家の前を通ります。
長者はわが子を忘れるわけはなく、すぐにわが子だと気がつきます。
子供は父であることには気がつきません。
長者はなんとか気づかせようとして、まずお手洗いの掃除をするようにして雇います。
それから更に庭の掃除をさせ、更に室内の掃除をさせ、段々と慣れさせていって、自分の身の回りの世話をさせます。
やがては、自分の財産の管理などもすべてまかせてしまいます。
そうして、ある日、村の人たちを集めて、皆の前で、この青年はわが子であり、わが財産はすべてこの者の所有であると宣言したのです。
長者は仏であり、その子というのは我々迷える衆生を指しています。
この喩え話は、長者の子が、自ら長者の子であることに気づかず迷い続けていて、少しずつ気がついてゆくという過程を表しています。
最近になって気がついたのは、長者の側のことであります。
長者はずっと、わが子がきっと気がついてくれることを信じて待っていてくれたのです。
きっと分かるはずだ、目覚めてくれるはずだと、信じて待っていたのです。
待つことは信じることであり、慈悲でもあります。
その長者の慈悲の中で、長者の子は気がつき、目覚めることができたのです。
待つことは、信じることであり慈悲であるとしみじみ思うのです。
待つことは決してただ単に、耐え忍んでいるというものではなく、または悲壮感のただようようなものでもなく、気づいてくれることを楽しみに待つのです。
いや待つこと自体が楽しみであれば、どんなに幸せでありましょうか。
雨乞いの名人の話を聞いたことがあります。
それは、雨が降るまで祈り続けるのだということでした。
これも待つことなのです。
祈りとは待つことだとも言えましょう。
雨は、きっと降る、必ず降るのだと信じて待っているのです。
力を入れて雨を降らすのではありません。ただ待っているのです。
待つことを楽しむ、信じて待つ、楽しんで待つ、教え導く者の理想であり、慈悲の究極だと思います。
横田南嶺