侍者のことば(夏の臨済録結集 一日目)
8月29日、30日の二日間、管長様は東京湯島の麟祥院で行われている和尚様の勉強会にいらしています。
僧堂の皆も和尚様方と一緒に参加させていただいております。
講師を勤められる方は、各僧堂の老大師、駒沢大学の小川隆先生、曹洞宗の藤田一照師と、錚々たる顔ぶれです。
初日の今日は、愛媛大乗寺の老大師の提唱から始まりました。
僧堂の雲水は、普段自分の僧堂の提唱しか聴きませんので、他の老師様の提唱を聴くのはとても新鮮です。
今回は『臨済録』の中から坐禅の造業についての部分をお話していただきました。
「坐禅は業を造る、しかしそれでも我々は坐禅をしなくてはならない」
老師様は力強くお示し下さいました。
そのお言葉に惹きつけらるように老師のお姿を拝見すると、背筋のすーっと伸びたとても美しい坐相でした。まさに全身をもって提唱されている姿に、おのずと自分の背筋も伸びていることに気付きました。
午後は京都八幡の円福寺の老大師による歩行禅指導です。
一人畳一枚を一呼吸一呼吸ゆっくりと歩いていきます。「自然な呼吸を観察する」というのが、なかなか難しいのですが、老師様によるとても丁寧なガイダンスに従っていくうちに、力みもとれ、気がつくとあっという間に一時間が過ぎていました。
続いて小川隆先生の禅語録講義です。
『臨済録』の中でも有名な臨済禅師臨終の問答についてご教示いただきました。
宗門の伝統的な解釈や、これまでの学界の解釈とも違う新たな解釈を学んでみると、『臨済録』がより一層活き活きとした語録であることがわかりました。やはり、もっともっと語録を学んでいかねばなりません。
本日の最後は曹洞宗の藤田一照師のお話です。
藤田先生の『現代坐禅講義』は僧堂に入る前に拝読していましたが、今回はパワーポイントを使ってさらに明快に坐禅について、修行についてお示しいただきました。
所有havingの次元から存在beingの次元へとパラダイムシフトすることがお釈迦様の修行であったととてもわかりやすく説明していただきました。
我が身を振り返ってみると、僧堂で修行生活を送っていても、「あれを経験した」「これができるようになった」と一見自分が成長したような気がすることもありますが、それは結局、経験や能力を「所有having」しているだけで、かえって迷いの世界の泥沼にはまっていたのだ、と気づかされました。
時間切れの為、最後のボディワークがほとんどできませんでしたが、管長様のお取り計らいで明日改めて時間を作って下さるとのことで、また明日が楽しみです。
僧堂の皆も、たくさん学び充実した顔でした。
侍者しるす