造業(ぞうごう)
八月二十九日、
夏の臨済録結集と銘打って
和尚さん方の研修会を行っています。
平成二十八年の臨済禅師千百五十年遠諱に
因んで、私の思いから
その前年二十七年より
毎月湯島の麟祥院で駒澤大学の
小川隆先生に臨済録の講義をお願いしています。
また二十八年より、京都の相国寺、野火止の平林寺、
宇和島の大乗寺、京都八幡市の円福寺僧堂の老師に
湯島の麟祥院の老師と私とで、毎年八月の終わりに
研修会を行っていました。
その二つの研修を一つにするような形で
本年は、湯島の麟祥院を会場にして、
二日間にわたり研修を行っています。
二十九日午前は
大乗寺老師の臨済録提唱で開講。
午後には円福寺老師の歩行禅指導
その次には、小川隆先生による臨済録の講義
特別に瞎驢辺の問題について深く考察された内容でした。
最後には、曹洞宗の藤田一照先生により
坐禅講義でした。
どれもすばらしい内容で、充実した一日を過ごしました。
開講の大乗寺老師は
臨済録の中でも
「汝言う、六度万行、斉(ひと)しく修すと。
我れ見るに皆な是れ造業。
仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。
菩薩を求むるも亦た、是れ造業。
看経(かんきん)看教(かんきょう)も亦た是れ造業。
仏と祖師は是れ無事の人なり。」という一節を
取り上げて提唱されました。
入矢義高先生の訳によれば
「君たちは、六度万行をすべて実修するなどと言うが
わしからみれば、みんな業作りだ。
仏を求め、法を求めるのも
地獄へ落ちる業作り。
菩薩になろうとするのも業作り。
経典を読むのもやはり業作りだ。
仏や祖師はなにごともしない人なのだ」
となっています。
言葉通りに受け取ってしまうと
この暑い夏に、老師方和尚方がわざわざ集まって
やれ臨済録提唱だ、講義だ、実習だといっている
このような研修会など、
臨済禅師から言わせますとまさに「業作り」
そのものでありましょう。
しかし、大乗寺の老師は仰せになりました。
「造業だけれども、造業をやってゆくしかないのだ」と。
老師の力強い、一言一言、肺腑にしみ通る思いでした。
清澄なお姿と、よく響くお声と、
「造業なれども、造業をやるしかない」の言葉に
大きな力をいただいた思いでありました。
横田南嶺