その中にありとも知らず
青山俊董老師は、すばらしい和歌を作られます。
無量寺の禅のつどいで
初日第一講座の始まりで
私が、道を求めるきっかけとなったことを
話しました。
私がまだ二歳の時に祖父がなくなり
火葬場で柩に火をつけ
煙突から白い煙が空に上っていくのをみて
祖父はどこにゆくのだろうかと
思ったのが、道を求める始まりであったことを
話しをしました、、
すると、そのあと、すぐに青山老師が控え室に見えて
老師がお母上を見送ったときの和歌を教えてくださいました。
お母さん
声をかぎりに よびてみぬ
母をやく煙 のぼり行くはてに
青山老師の和歌を私も法話で引用させていただくことが
ございます。
私が、もっとも好きで引用するのは
その中に ありとも知らず
晴れ渡る 空にいだかれ 雲の遊べる
の一首であります。
そのことを青山老師に申し上げたわけでも
法話で触れたわけでもないのですが、
帰りがけに、下さった老師の著書の
扉に、なんと
この和歌を書いてくださっていたのでした。
ご縁の不思議というか
感応道交というのは、不思議な思いでした。
青山俊董老師にいただいたご著書
『くれないに命耀く』から
この歌の説明を引用させていただきます。
その中にありとも知らず晴れ渡る
空にいだかれ雲の選べる
これは「晴れ」(昭和六十四年)という勅題によせて詠じた私の歌である。
「その中」というのは、仏さまの御手のど真ん中ということ。
気づくと気づかぬとにかかわらず、いつでも御手のど真ん中であることに変わりはなく、
御手のど真ん中での起き伏しなのである。
その中の「雲」というのは、私共のこと。
雲は温度と湿度と風により、ときにはかろやかな美しい雲となって流れ、
ときに荒れ狂う黒雲となり、ときに勇壮な入道雲となり、
ときに液体となり、雨となって地上に落ちて来たり、個体となり、雹や霰や雪となって舞いおりて来たり、
ときに消えたと見えたりする。
しかしこのすべてのいとなみは、大空の中での出来ごとであり、
増減なし、生死なし、去来なしの大空にいだかれ、
その中にあっての生死・去来なのであって、どこへもゆきはしない。
われわれの命の姿も、これと少しも変りはしないのだ、ということを。
写真は、いただいた本の扉に書いてくださった
青山老師の書です。
横田南嶺