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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.05.02
今日の言葉

内観の日

先日修行道場で、一日かけて内観を行いました。

内観については、今年の三月十八日の管長日記にも書いたことがあります。

「吉本伊信(1916~1988)が創始した心理療法。道場で1週間程度自らの心の中を観察し、自他についての肯定的な認識を作り出すことで、心の不適応状態からの回復を図る。」と『広辞苑』にあるものです。

この内観の法を現代において広く薦めておられる青山学院大学の石井光(あきら)先生に、円覚寺にお越しいただいて、一日修行僧たちに内観の指導をしていただきました。

通常は一週間かけて行う内観ですが、一日だけ行ったのでした。

それでも午前九時から午後四時まで、ずっと、坐り続けるのであります。

坐るといっても、坐禅修行とは違いますので、坐り方は自由なのです。

また少々動いても問題はないのです。

一週間行うと、家族やいろんな方について内観するのですが、一日だけですから、母親に対してのみ行いました。

母親がいない場合は、母親に代って育ててくれた方について内観します。

一、母親からしていただいたこと
二、母親にしてさしあげたこと
三、母親に迷惑をかけたこと

という三つの質問について事実を答えてゆくのです。

今回面接には、石井先生のほか、信州内観研究所の中野節子先生、神田真介先生が担当してくださいました。

この三つの質問に具体的な答えを探して、一時間ごとに面接の先生が内観をしている人のところに来て、今の時間どのようなことを調べ、 思い出したかを尋ねてくれます。

内観している者はこれら三つの質問について、思い出したことを報告します。

すると面接者はお礼を言って、次にいつの時代を調べるかを聞き、あるいはいつからいつまでを調べてくださいと言って去っていきます。

文章にすると実に単純な方法なのですが、これが奥深いのであります。

私もその開始に際して一言ご挨拶申し上げました。

私自身、高校生の頃に一週間の内観を体験したことがあります。

もう四十年も前のことですが、今でも印象に残っていることがあります。

それは、面接をなされる方の態度、姿勢、雰囲気であります。

一人ひとりに対して実に丁寧に真摯に頭を下げて、礼をして、話を聞いてくださるのです。

たいした話ではないのですけれども、終わるとまた丁寧にお辞儀をして下さるのです。

そのお姿、たたずまいに心打たれました。

それまでお寺に通って坐禅をしていましたが、禅の世界にはない謙虚さ、素直さ、真摯なる姿勢に心打たれたのです。

禅の修行をすると、どうしても自分が特別な心境になったように錯覚して、人を見下してしまうことがあり得ます。

人に接するにしても「何しに来たのだ」と横柄な態度になってしまうこともあります。

一人ひとり拝むように接する姿勢には学ぶべきものがたくさんあります。

今回修行僧達の感想を拝見しても面接してくださる先生方の姿勢に感銘を受けたという方が何名かいたのでした。

禅の修行は気をつけないと、昔日蓮聖人が「禅天魔」と言われたように、増上慢に成りがちな一面があるのです。

司馬遼太郎さんと梅原猛先生の対談の中で、司馬遼太郎さんが、

「たとえば私、どう考えてみても禅というのは天才のための道だと思うんです。

十万人が禅をやって一人ぐらいが悟りに入れるように思うんで、やたらと禅をやれやれと宣伝すべきものではない。

あとのふつうの人間はもとの木阿弥、それどころかもとより悪い人間になるんじゃないか。

なにかそういう毒素みたいなものを禅というのはもっているように思います。」

と述べているところがあります。

『考える愉しさ 梅原猛対談集』(新潮社)にある言葉です。

司馬さんは、更に、

「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき、これは並以上に悪い人間じゃないかと思うことが多かったです。

禅宗に多少関係したことのある友人の作家に、禅をやって悟るのは十万人に一人ぐらいじゃないかと聞いてみたら、いやそれより少ないんじゃないかといってましたが(笑) 禅というものを、きわめて毒性のつよい、天才のための道だという風に覚悟をきめて見直す、それには既成のお寺さんにはいったん店を閉めていただく、そうしないといけないんじゃないか。」

と実に手厳しいことを述べておられます。

私などその組織の中にいますので、司馬さんの指摘よりかは、もう少しマシではないかと思っていますが、それでも言い得ている一面もあるのです。

もっとも禅の修行に素晴らしいところがたくさんあります。

多くの人にも体験してもらいたいものであります。

ただ禅には、気をつけないといけない欠点もあると自覚しておくことも大事であります。

そうでないと、司馬さんの指摘されたように、「あとのふつうの人間はもとの木阿弥、それどころかもとより悪い人間になる」ことにもなりかねません。

内観は、『広辞苑』の解説に、「自他についての肯定的な認識を作り出す」とありますように、肯定的に認めてゆくものです。

禅の場合は、否定から入ります。

自己を徹底して否定してゆく修行であります。

どんな宗教であれ、教えであれ、どんな人にもあう万能薬のようなものはないので、それぞれ自分にあったふさわしい教えがあると思います。

禅の良さだけでなく、ことなる方法の良さも知っておくことはよいことであります。

特にお若い内に、優れた人格に触れることは、とてもよいことです。

石井先生や中野先生という人格に触れるだけでも、大きな影響があると思います。

内観した修行僧の中には、涙を流していた者もいたようです。

純粋な彼らの心に大きな変化が生じたと感じました。

終わったあと、修行僧達の雰囲気が、実に温かくなっていたのが印象的でありました。

内観の修行によって、禅の究極としている慈悲の心が自然と湧いてくるのであります。

 
横田南嶺

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