無駄の尊さ
新緑の季節であります。
爽やかな風を感じる季節でもあります。
コロナも落ち着いてきたようで、山内でもマスクを着用せず、新緑を感じながら拝観される方がいらっしゃるようになりました。
しかしながら、この三年というコロナ禍の影響は、思った以上に大きいものです。
お寺の儀式は大きく簡略化されました。
食事を提供することはほとんど無くなりました。
あってもお弁当であります。
お寺での法要を「斎会」と言っています。
いまはお坊さんが集まってお経を読んでご飯を食べることを言っています。
もともとの「斎」の意味は「布薩」であったとは、昨日お話したことです。
布薩という意味から考えると、一番大事なことは、お坊さんが戒を守って戒を意識して暮らすことであり、戒にもとる行いがないか反省して生きることです。
そして在家の人にも戒を説いて守ってもらって、一日なりとも戒の暮らしをしてもらうことでした。
それから信者さんに教えを説いて聞かせることです。
それに対してお昼ご飯のご供養があるというのが、斎会の「斎」でありました。
今は斎会のお昼ご飯はお寺が用意しています。
しかし、これも考えてみればおかしなことで、もともとお寺というところは、蓄えも何もなかったのです。
食事の供養は信者さんたちがなさるものでありました。
信者さんが、お坊さんに供養しようと思うような、戒を守った暮らしをして、そして信者さんたちに教えを説いて、食事の供養をいただいていたのでした。
そんなもともとの姿から考えると、お寺がお料理屋の食事を出すというようなことは考えられないことでしょう。
お寺で食事を出すかどうかという問題などを考える時には、このように元来はどうだったのかを思い起こすこともよろしいかと思います。
そうすると、仏弟子として何が大切なことか、何が枝葉末節のことなのかが分かってきます。
この頃は、世間では、誰かがお亡くなりになっても香典も受けない、供花もお断りというところが多くなりました。
お寺の法要、斎会ですと、毎回のように引き出物をつけます。
これがなかなかたいへんで、用意する時にはあれこれ考えないといけません。
たいへんだというので、実際のところ、もうやめている地域もあるようです。
しかしながらお寺の世界というのは、古くからのしきたり、伝統を尊ぶので、なかなか今までの習慣をすぐにやめるというのが難しいのです。
まずお寺の和尚が亡くなると密葬を行って、そのあとに本葬にあたる津送という儀式をします。
そこから引き物が始まります。
更に一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌と続きます。
私も東京のお寺の兼務住職を勤めていて、先代の師匠の齋会をずっと十七回忌まで勤めてきました。
たしかに毎回考えるのもたいへんだし、お寺のものだとどうしても限られてくるので、もらう方も同じようなものが続くこともあり、もういいのではないかという気持ちも十分にわかります。
それでも、用意しないではいられなかった自分の心情をどのように表現したらいいのかずっと考えていました。
そんな時にある人からサン・テグジュペリの『星の王子さま』にある「愛とは相手のために時間をムダにすること」という言葉を教わりました。
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために 費やした時間だったんだ」と、新潮文庫の『星の王子さま』にはあります。
たしかに合理的に考えると、密葬と津送と二回も行うのは無駄のようであります。
斎会のたびに、引き出物を用意するのは、用意する方もいただく方も無駄に思うこともあるかも知れません。
しかしながら、私は弟子として師匠に対する思いを表すには、この「無駄」をすることしかなったのでした。
やはり、無駄だと言われるかもしれないけれども、させてもらいたいというのが、私のせめての思いなのであります。
師匠に対する思いですから、「愛」という表現はふさわしくないと思いますが、その恩に報いたいという思いなのです。
引き出物についてあれこれ考え、注文し包装して、かけ紙をかけて用意するという、無駄と言えば無駄だというものもなければ、気持ちの表しようもないのだと思うのであります。
合理化した方がよいというご意見も貴重です。
しかし、世の中には、無駄というのは案外意味がないわけでもないという一面もあろうかと思うのであります。
修行時代には、常に無駄骨を折れ、無駄骨を折れと言われたものでした。
修行のほとんどは、無駄といえば無駄なことでしかありません。
「雪を担って古井を埋む」という禅語があります。
井戸にいくら雪を埋めても、埋まるはずもないのです。
それでも埋め続けるのです。
修行はどこまでも、どこまでも無駄骨の繰り返しなのだと教わったものです。
たしか『むだを堂々とやる!―禅の極意』という題の本がありました。
お亡くなりになった板橋興宗禅師の本であります。
この題の言葉にも深い意味があります。
無駄は合理化の波の中に埋もれてゆくだけかもしれません。
しかし、時には無駄が尊いと感じこともあるものです。
そんなことを考えていると、須磨寺の小池陽人さんの新しい法話が公開されていました。
宮大工の小川三夫さんのことを語ってくれていました。
小池さんが「人は無駄をしないと、何が無駄なのか本当の意味で分からない。
たくさん無駄をして、その人が、ああこれが無駄なんだと気づくことが大事なんだ。
気づいたことではじめてその無駄をなくせるのだ」と語っていました。
考えてみれば、この忙しい世の中に、坐禅しているということが無駄なのかもしれません。
この我々僧侶という存在自体が無駄なのかもしれません。
しかし、その無駄の尊さもあるはずなのです。
横田南嶺