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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.10.16
今日の言葉

仏の宴の中で坐る

大阪の天正寺の住職である佐々木奘堂さんにお越しいただいて、修行僧達と共に坐禅の講義を受けました。

奘堂さんは何度も紹介していますが、坐禅ひとすじの禅僧であります。

奘堂さんが見えると、講義の前もその後も、控え室でお互いに坐禅談義に花が咲きます。

坐禅について、これだけ語り会える仲間がいることはこの上なく嬉しい、有り難いことなのであります。

今回の坐禅講義では、まず前回の講義で、蝉に学ぶという話をされたのに引き続いて、蝉の話から始まりました。

関大徹老師の本『食えなんだら食うな』(ごま書房新社)から、

「蝉に禅の何たるかを教えられる」(25頁)という一節を紹介されました。

引用させていただきます。

「蝉が啼いていた。日中、お寺の木立ちにつかまった短命な生き物は、騒がしく啼きつづけていた。
 騒然と啼いている、と最初は聴いた。それが、実は、一定の気息のようなものがあり、それは大自然の気息と一体になっているといってもよく、一つに融けあった世界だと知って、私は私の気息もその蝉の無心に移しかえようとしたようである。この一週間、私にとって、蝉は師であり、仏であり、そして、私自身が蝉になった。…
 秋の訪れとともに、蝉時雨は熄(や)んだ。その生命を完了したのであろう。だが、私の仏になり、私の師になった彼等は、私の中に一つの生命を残した。
 以来、禅に入るとき、私は、蝉の声を求めるようになった。蝉の声が聴こえ、蝉の気息と一つになったとき、私は禅三昧に入っていた。」

という文章であります。

私は、久しぶりに『食えなんだら食うな』の本の話を聞いて感激しました。

もともとこの本は、一九七八年に刊行されたものでした。

私は、その出版された頃に、この本を熱心に読んでいたのでした。

まだ中学生の頃だったかと思います。愛読書のひとつでした。

かつて執行草舟先生と対談した折に、執行先生のお部屋の書架にこの『食えなんだら食うな』の本を見つけて驚いたのでした。

思わず執行先生に尋ねたところ、執行先生もこの本が愛読書なのだと仰ってお互いに意気投合したのでした。

その後執行先生は、この本を復刊させたのでした。

その復刊した本を私にも贈っていただいたのでした。

二〇一九年の復刊でした。

実に四十一年振りの復刊なのです。

「解題 ― 復刊に寄す」として、執行先生は次のように書かれています。

「この本は、私の命の「恩人」なのだ。いや、それだけではない。
私が事業を起こすときの、その創業の決意を促してくれたのも本書なのだ。」

「私は、本書をまさに食らい続けて生きて来た。そして、その幸運をいま振り返っている。
本書は、それほどの本であった。しかし、長らく絶版となっていたのだ。私は残念でならなかった。古本もすでに尽きてしまっている。その私の無念を、晴らしてくれたのが今回のこの復刊である。何と言う喜びだろう。声に出すことも出来ない。」というのであります。

更に執行先生は、「著者の関大徹老師は、禅の最高境地を生き切った本物の大人物である。禅僧というだけではない。人間として、最高の人間なのだ。私が知る最高の魂をすべて具現している。厳しく悲しい人である。
温かく面白い人である。そして、何よりも可愛らしい人だ。私はそう思う。」
とまで賞賛されています。

それから奘堂さんは、

ドストエスフキーの『白痴』(第3篇7章)の一節を紹介されました。

「熱い日光を浴びてゐる一匹の蠅。此(この)蠅ですら宇宙の宴(うたげ)に参与(あづか)る一人で、自分のゐるべきところをちやんと心得てゐる。(室生犀星の詩から)」

という言葉であります。

蝉の次は蠅でした。

一匹の蠅が宇宙の宴にあずかっているというのです。

ハッとさせられる言葉であります。

そこから、奘堂さんは、「宴坐」という言葉を紹介されました。

「宴坐」という言葉は、『維摩経』にある「道法を捨てずして凡夫の事を現ず。是れを宴坐と為す」というのを思い起こします。

「宴坐」は漢和辞典で調べてみると、

「くつろいですわる」ことであり、仏教語としては、「心を静めて座禅すること」と説明されています。

「宴」には、「うたげ」の意味の他に、「やすい。やすんずる。落ち着いてくつろぐ。」という意味もあります。

奘堂さんは、屋根の下で女性がくつろぐのが「安」であり、「安」に「日」を加えたのが「宴」だと説明されて、太陽が照っているなかで安らぐ様子だと解説されました。

道元禅師が「終日宴坐これをつとむべきなり。」と仰せになっています。

この言葉を紹介されながら、奘堂さんは「宴坐」を「仏のいのちの宴にあずかる」ことだと説かれました。

そして何より大事なのは、仏のいのちをいただきますという心の姿勢なのだというのでありました。

身も心も放ち忘れて仏のいのちをいただきますという心の姿勢、即ち礼拝の心であります。

この心の姿勢が腰を立てるのだという講義をしていただいて、皆で実習をしたのでした。

坐禅について語り合い、研鑽しあう楽しくも有り難い一日でありました。

 
横田南嶺

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