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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.10.15
今日の言葉

禅の二つの立場

禅は、インドから中国に渡ってみえた達磨大師によって始まります。

達磨大師から、五代目の法を嗣がれたのが五祖弘忍禅師です。

五祖禅師のもとからは二つの系統に分かれました。

一つは、神秀禅師というお弟子であり、もう一つは、六代目となった六祖慧能禅師であります。

二人とも五祖禅師のもとで修行していて、ある時に、神秀禅師が五祖禅師に偈を作って示しました。

それが、

身は是れ菩提樹、

心は明鏡の台のごとし。

時時に勤めて払拭して

塵埃に染(けが)さしむること莫れ。

という漢詩であります。

『六祖壇経』(中川孝、たちばな文庫)の訳によれば、

「身は悟りの樹、心は澄んだ鏡の台。
いつもきれいに磨きあげ、塵や埃を着かせまい。」

という意味であります。

山田無文老師は、『無文全集』の中で、次のように解説してくださっています。

「『身は是れ菩提樹』でありますから、体は悟りの花を開く樹である。

命あって初めて悟りが開けるのであります。

この命というもの、体というものはまさに菩提の樹であって、これは大切にしなければならんものである。

しかも『心は明鏡台の如し』。これはもう私どもが始終申し上げることで、われわれの本性というものは鏡のようなものだ、一点の曇りのない大円鏡智という大きな円い鏡のような智慧、そういうものがわれわれの本性である。鏡のようなきれいな心が本性である。」

というのであります。

そして、

「その鏡のような清浄無垢な心に雲がかかると、塵がかかるとその鏡が現われないのだ。その鏡の光が現われないのだ。妄想の雲がかかって煩悩の塵がかかり、そうして心を晦ましておりますから、そこで、「時々に勤めて払拭して、塵埃をして惹かしむること勿かれ」、常にその塵を払い、埃を払い、曇りを拭い、そうして塵や埃がその心の本性にかからんように努力していかにやいかん。坐禅をするということは、その塵を払うことである。念仏を唱えるということはその曇りを拭うことである。そうして、いつも本来の清浄無垢な鏡のような心で、毎日、日暮らしをしなければならんと、こう示されておるのでありますから、これは決して悪い詩ではなくして、大変結構な詩であります。」

と解説されています。

その通りに、五祖禅師もこの漢詩を御覧になって、この詩の通りに修行すればよいと弟子達に示されたのでした。

その漢詩を見た慧能禅師は、ご自身の漢詩を作られました。

それが、

菩提は本より樹無し、

明鏡も亦た台に非ず。

本来無一物(むいちもつ)

何(いず)れの処にか塵埃有らん。

という詩であります。

『六祖壇経』(中川孝、たちばな文庫)の訳によれば、

悟りにはもともと樹はない。澄んだ鏡もまた台ではない。
本来からりとして何もないのだ、どこに塵や埃があろうか。

ということであります。

こちらも山田無文老師の提唱を参照しますと、

「心は本来無形のものであるから菩提樹なんてものはありません。悟りに樹なんぞありません。鏡の中は清浄無垢で何にもないということが鏡なのだから、明鏡台のごとしなどと言っても、鏡などというものがあるのじゃない。鏡の台さえもない、何にもないところが鏡のごとしと言うべきところである。菩提の樹もなければ鏡もないのだから、心の中へ飛び込んでみれば本来無一物、何にもないのだから塵埃をつけたくてもつけるところがない。塵埃をつけたくともつけようがないのじゃないかと、こう慧能がうたっておるのであります。」

ということです。

神秀の立場よりも一段と高い悟りの心境であります。

無文老師もまた、

「慧能の悟りが、はるかにすぐれていることが、よく分かるのであります。」と示されています。

「本来無一物」という言葉は後によく使われるようになります。

『六祖壇経』の別本には、「本来無一物」ではなく「仏性常清浄」となっています。

無一物というのは、単に何もないということではなく、心になにもひかかることがない、塵埃の無いことを言います。

仏教では、元来心性清浄ということが、「空」と説かれるようになっていったのでした。

神秀禅師の立場が北宗として伝えられ、慧能禅師の立場が南宗として伝わります。

私たちの臨済宗や曹洞宗の教えはこの南宗から来ています。

ですから、私たち南宗の立場からすれば、慧能禅師の悟りの方が次元が高いものだと説くのであります。

北宗を漸悟といい、南宗を頓悟とも言っています。

北宗は丁寧に鏡を磨き上げるように、徐々に心を綺麗にしてゆく修行なのです。

南宗は、そんな鏡などもともと無いのだと、瞬時に悟る教えなのであります。

この二つの派がお互いに影響を与え合いながら、伝わってきました。

鏡を磨くように心を常に清らかにしておかねばならないという立場と、本来心は清らかであり、仏心そのものだという教えであります。

どちらも必要な教えであります。

釈宗演老師も『禅海一瀾講話』のなかで、この二つの立場について、

「この二派は相い争って居る。相い争って居る間に真理は益す磨かれると思う」と説かれています。

お互いに生身の身体を持って生まれたからには、常に慎んで鏡を磨くように修行しなければならない一面と、心は本来何の汚れも受けないという一面とを併せもっているのであります。

両方の立場を学びながら、心は磨かれていくのであります。

 
横田南嶺

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