蝉に学ぶ
佐々木奘堂さんは、坐禅一すじの求道の方でいらっしゃいます。
八月に私が飯山市の主催の講演会で、正受老人について話をした折りにも、来て下さっていました。
その講演会のあと、奘堂さんは正受老人の住まわれた正受庵を訪ねたそうです。
そこで、奘堂さんは「偶然、「生きた師」に出会う御縁に恵まれた」というのでした。
その「生きた師」に出会って学んだことを是非伝えたいというのでした。
奘堂さんほどの方が「生きた師」というのは誰なのかなととても興味を持っていました。
お話をうかがって、驚きました。
その「生きた師」というのは、人間ではなかったのであります。
それは何かというと蝉でありました。
正受庵を訪ねた奘堂さんが、道で蝉がころがっているのを見たそうです。
もうひっくり返っていて死んでいると思った奘堂さんは、この蝉を道端によけてあげようとしたのでした。
すると、その瞬間その蝉はパッと起き上がったのでした。
その姿を見て、奘堂さんは感激されたのでした。
死にかけた蝉であっても、パッと起き上がることができる、その時に足でしっかり大地を踏みしめて、本当に生きた正身端坐になっているというのでありました。
その時の蝉の写真も見せていだきました。
もう羽根もちぎれてしまって、飛ぶこともできないような蝉でした。
しかし、六本の足でしっかり大地を踏みしめて立っているのであります。
以前、「生きねばや鳥とて雪をふるい立つ」という句を紹介したことがありましたが、まさしく、蝉も生きねばと思って、起ち上がった姿なのでした。
その蝉の姿を見た奘堂さんは、
「坐禅は、私が意識して呼吸を調えるとか心を調えるという次元のものでなく、「生命の大なる気息」「大なる生命の流の溢出」であることがわかったというのでした。
聖徳太子の『法華義疏』を引用されて、
「咄哉丈夫」とわからぬか、丈夫たるものが、と強く呼びかけて、
「無価の宝珠を以て汝が衣の裏に繋けぬ。今故お現にあり。」という『法華経』の一文を聖徳太子が註釈された
「常に坐することを好む小乗の禅師に親近せざれ。顛倒分別の心有るに由るが故に、此を捨て、彼の山間に就きて、常に坐禅を好むなり。」
という言葉を示されました。
すばらし宝の珠をすでに持っているのに、外に向かって求めようとしていることを戒められたのでした。
現実の世界を離れて、静かな山の中にこもって、自分だけ澄まして坐禅しているような者には近づかないようにと註釈されているのであります。
単に静かに心を調えればいいというものではないのです。
臨済禅師もまた『臨済録』において、「大丈夫たるものが、大丈夫の気概も示さず、自己に具わっている本来のものを信じようともしない。ひたすら外に向って求め、古人のつまらぬ言葉に」ひかかっていることを戒められています。
また「世の中には道理の分からぬ僧がいて、腹が一杯になるまで飯を食って、坐禅観行(かんぎょう)し、念慮の働きを押さえ込み、喧騒を嫌い静寂を求める。しかし、これは外道の教えである。」とも示されています。
そんなことをよりも、奘堂さんは生きんとして起ち上がる蝉を見よというのであります。
鈴木大拙先生の『禅と日本文化』岩波新書にある「禅と俳句」の章に、
「やがて死ぬ けしきはみえず 蝉の声」
という芭蕉の句が紹介されています。
大拙先生は、
「この句は多くの批評家や註釈者によってつぎのごとき意味に理解されておる。人生は無常であるのに、それを悟らぬ人々が種々様々の享楽に耽っていることは、あたかも、夏の日に蝉がいつまでも生きつづけてゆくかのように声をかぎりにやかましく啼き立てているようなものだ、というのである。芭蕉はここに具体的な判りやすい例をもって、道徳的な精神的な訓戒を与えていると。
しかし、自分の見るところでは、この種の解釈はまったく「無意識」に対する芭蕉の直覚を無にするものである。初めの二行はたしかに人生の無常を人間的に反省したのである。しかし、この反省は「蝉の声」という結句の序言にすぎない。
「蝉の声」にこの句のすべての重みがかかっている。「みいーん、みいーん」と啼く蝉の声こそ、蝉が自分を表わす方法である。すなわち、自分の存在を他に知らせるのであって、かくある間は、ここに完全にして己に足り世に足りる蝉がいるのだ。誰もこの事実に背くことはできぬ。」
と解説されています。
更に「啼ける間は生きていて、生きている間は永久の命だ。無常を思い煩ってなんの益があろう。蝉は人間の反省がいまだいたらぬ明日の事柄に思いを寄せるようにするのを嘲っているのかも知れぬ。」というのであります。
渾身の気力で鳴くだけなのであります。
技法も何もないのであります。
ただ気概あるのみです。
そこで西田幾多郎先生の『善の研究』を引用してくださいました。
「今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、凡ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。」というところです。
奘堂さんは、「断えず行う坐禅(正身端坐)というのは、
「人間が人間の天性(本性)を発揮すること」であり、「大なる生命の気息の溢出」である。凡ての人工的仮定を去り、天地人生の真面目を本として出立せねばならぬ。」
と示して下さったのでした。
坐禅の本質を端的に示してくださり、有り難いことでした。
そして、蝉にも道を学ぶ、その姿勢にも感動したのでした。
横田南嶺