何も隠すことはない – ウスキモクセイに思う –
木犀には、キンモクセイ、ギンモクセイとウスキモクセイという種類があるそうです。
毎年、秋になると花をつけて、その香りが寺いっぱいに満ちています。
写真を撮っても、その香りを伝えることができなくて残念であります。
このウスキモクセイが香ると、毎年思い起こす禅の逸話があります。
黃庭堅と晦堂禅師の話であります。
黄庭堅は、黄山谷とも呼ばれ、1045年に生まれ1105年に亡くなっている、中国北宋の書家であり、詩人でもあり文学者でもあります。
今北洪川老師の『禅海一瀾』に引用されている箇所を訳してみます。
訳は、盛永宗興老師の訳である柏樹社刊行の『禅海一瀾』を参照させていただきます。
「昔、宋の黄庭堅が黄龍山の晦堂禅師に教えを乞うた時、禅師がいわれた。
「あなたが識っている儒教の書物の中に、禅に相通ずる一、二の句がある。知っておられるか」と。
庭堅は「分かりません」と答えた。
折しも猛暑が去って涼しくなり始めた頃で、初秋を告げる木犀の香りが院内に満ちていた。
晦堂禅師が尋ねた。「木犀の香りがお分かりか」。
庭堅が「ハイ」と答えると、禅師は「私はあなたに何も隠していない」といった。
庭堅はその言葉にハッと気付くところがあって喜びにつつまれた。
その後、庭堅は左遷されて黔州という片田舎に赴任したが、ある日昼寝から目覚めた時、突然深い悟りに到達した。」
という話であります。
これは、『論語』にある言葉がもとになっています。
『論語』に
「子の曰わく、二三子、我れを以て隠せりと為すか。吾れは爾に隠すこと無し。吾れ行なうとして二三子と与にせざる者なし。是れ丘なり。」
という言葉があります。
「吾れは爾に隠すこと無し」は、「吾れは隠すなきのみ」と読む説もあるそうです。
岩波文庫の金谷治先生の訳を参照しますと、
「先生がいわれた、「諸君はわたくしが隠しごとをしていると思うか。わたしは隠しだてなどはしない。わたしはどんなことでも諸君といっしょにしないことはない。それが丘(このわたくし)なのだ。」」
ということであります。
洪川老師は、この『論語』の言葉を取りあげて、
「妙道というものは、至って簡単で身近なものである。道は分かってみれば、世の常の事である。
決して日常からかけ離れた高明なものでもなく、深遠なものでもない。しかもまた、これほど高明なものもなく、これ以上深遠なものもない。だからその微妙な働きは甚大である。
孟子はいっている。「道は身近にある。 それなのに人はかえってこれを遠くに求める。 なすべき事は簡単なところにある。それなのに人はこれを難しいところに求める」と。まことにそのとおりである。(盛永宗興老師訳)」と述べておられます。
そのあとに黄山谷の逸話を引用されているのです。
洪川老師のお弟子である釈宗演老師は、『禅海一瀾講話』のなかで
「吾れは朝起きてから晩に寝るまで、その間、行住坐臥、有ゆる行動の上に於て、一々爾等に示して居るのである。
「道」というと、大層遠い所へ求める様だが、実はそうでなくして、我が毎日毎日のこの行動が即ち爾等の為に示して居るのである。
こういう所の言葉というものは、実に道を修める者から言うと、有り難い所のもので、一つ目を開て総ての宇宙間に放って見ると、天にある現象も、地に現われて居る。総てのこの差別も、それが一種の無言の説法をして居るのである。
仏法でも能く言いますが、説法というものは、決して口の上で、彼是喋べるばかりではない。
それは低い說法で、その上に、心に行う、それが大いなる一つの説法であると、仏も申されて居る。
孔子の立場から言うと、一切の者が我々に無言の説法を与えて居ると言うても宜い。
無言の説法ということは、誠に大いに味わうべきものである。」
と解説してくださっています。
天皇道悟禅師と龍潭崇信禅師の問答を思い起こします。
龍潭禅師が、まだ天皇禅師のもとで修行中だった時の事です。
龍潭禅師が、入門してもまだ何も禅の肝要なところを教えてくれないことを天皇禅師に訴えました。
それに対して、天皇禅師は、「あなたが来てからというもの、私はあなたに教えを示さなかった日はない」と答えます。
いったい、どこが指示されたところですかと問うと、天皇禅師は、あなたがお茶をもって来てくれれば私はそのお茶をいただくし、あなたが食事を持ってきてくれれば私は有り難くいただいている、あなたが挨拶してくれれば私はそれに答えているではないか、いったいどこに教えを示さないことがあろうか、よく見届けよといわれたのでした。
禅は、これこれが禅ですと示すことができるものではありません。
朝のお粥をいただくのも、掃除をするのも、お経をあげるのも坐禅をするのも、夜蒲団で休むのも皆禅の教えが露わになっています。
それのみか、山にも河にも、吹く風にも鳴く鳥にも、寺いっぱいに香る木犀の香りにも現れているのであります。
ただそのことに気がつくか、どうかなのです。
横田南嶺