外に求めるな
「諸君、三界(凡夫の迷いの世界)は安きことなく、火事になった家のようなところだ。ここは君たちが久しく留まるところではない。死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老幼を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。」
というところから始まります。
岩波文庫『臨済録』にある、入矢義高先生の現代語訳を参照しています。
この迷いの世界が火宅のように苦しみに満ちたところで、いつ死に襲われるか分からないと説かれています。
そのあと、「君たちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。」という言葉が続くのです。
いきなり「君たちが祖仏と同じでありたいならば」と続くのですが、これは、祖師や仏というのは、その三界の苦しみから既に解脱した人だからです。
『法華経』には、次のように説かれています。
「私たちが生きているこの三界には、まことの安らぎというものがありません。
それは、あたかも燃え盛る家の中にいるようなものです。
そこには、さまざまな苦しみが満ちあふれていて、まことに恐ろしいところなのです。
生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、そして死ぬ苦しみという、さまざまな悩みや憂いが絶えることなく存在しています。
こうした苦しみの炎は、激しく燃え盛って、少しも消えることがありません。
しかし、如来である私は、すでにこの三界という燃え盛る家から抜け出しました。
そして、あらゆる煩悩を離れ、静かで安らかな境地にあって、林や野に身を置くように、心静かに過ごしています。」
と説かれています。
仏は、この燃えさかる苦しみの家から抜け出て、煩悩を離れて安らかな境地にあるのです。
ですから、ここで祖仏と同じでありたいならというのは、この苦しみの火宅から逃れて静かで安らかな境地に到りたいのならばという意味だと受けとめることができます。
それには「決して外に向けて求めてはならぬ」というのです。
自分の外に、絶対的な救済者がいて、その救済者に救いを求めるというのではないのです。
救済してくれる神仏に頼るのではありません。
また今の自分とは違うものになろうというのでもありません。
外というのは場所的な、自分の外という意味だけでなく、時間的にも今の自分から離れて何か特別な行をして、苦しみから逃れる方法を見いだすのではないと言っていると、受けとめています。
臨済禅師は、そこから私たちの本来の心に具わった清らかな光が法身仏であり、無分別の光が報身仏であり、無差別の光が化身仏だと説いています。
法身仏、報身仏、化身仏(応身仏)という、仏教で説いている三種の仏身は、どこか遠い彼方に存在する仏でもなく、これから長い時間をかけて修行して到達するような仏でもなく、臨済禅師は「今わしの面前で説法を聴いている君たちそのものなのだ」と説かれています。
実に痛快なお説法であります。
そしてさらに「外に探し求めないからこそ、このようなすばらしいはたらきを具えているわけだ。」と説かれます。
「この三身は仮の名前であり、また三種の借り物なのである」とも説かれているのです。
本体はそれこそ無位の真人にほかなりません。
その真人に着せた衣のようなものであります。
そのあと臨済禅師は、慈恩大師窺基の『大乗法苑義林章』の言葉を元に「仏身の区別は仏法の教理によって立てたもの、また仏の国土はその理体によって設定したものだ」と説かれています。
しかしそのような概念に用はないのであります。
そのような概念を臨済禅師は「光影」だと説いています。
入矢先生は「ちらつき」だと訳されています。
そんな「ちらつき」よりも「君たちはそれをちらつかせている当体を見て取らねばならない」と臨済禅師は迫ります。
ではここでこの話を聴いているものはいったい何なのかと問い詰めてきます。
臨済禅師は、その聴いているもの「それこそが諸仏の出どころであり、あらゆる修行者の終着点なのだ。」というのです。
しかし「君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか」と迫ります。
そして「今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。」と説いてくださっています。
そこでさらに「ただ想念が起こると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。」という言葉が続きます。
これは地の文で説かれているのですが、李通玄の『新華厳経論』序の冒頭の句と、ほぼ同じ表現であります。
先には慈恩大師の言葉が引用され、ここでは李通玄の言葉が地の文に見られます。
このことから、『臨済録』には唯識や華厳の思想が深く取り入れられていることがうかがえます。
李通玄(六三五~七三〇)は、唐代の在俗の華厳経研究者です。
晩年になってから華厳経(八十華厳)の研究に志し、十数年を費して注釈書『新華厳経論』四〇巻を完成されています。
臨済禅師が引用されているのはその冒頭の句なのです。
「夫れ以んみるに有情の本は、智海に依るを以て源と為し、含識の流は、法身を総べて体と為す。只だ情生じ智隔つるが為に、想は変じて体は殊なる。本に達し情亡べば、心と体と合するを知る」
という文章です。
意訳しますと、「そもそも、よくよく考えてみると、あらゆる生きとし生けるものは、仏の広大な智慧の海を根源として存在している。心を持ち、ものを認識するすべての存在は、ことごとく仏の法身をその本体としているのである。
ところが、さまざまな思いや分別の心が生じることによって、本来具わっている智慧から隔てられてしまう。そのため、心に浮かぶ思いや認識がさまざまに変化し、それに応じて、本来一つであるはずの存在も、それぞれ異なったものとして現れるのである。
しかし、すべての存在の根源に目覚め、分別や執着の心が消え去れば、自分の心と本来の真実のあり方とは、もともと一つであったことが明らかになるのである。」となります。
外に向かって求めるから、さまざまな思いや分別の心が生じてしまい、本来具わっている智慧から隔てられてしまうのです。
そこで臨済禅師は、外に向かって求めるなと繰り返し説かれるのです。
横田南嶺