何が聴いているのか
「你、祖仏を識ることを得んと欲すや。秖だ你が面前聴法底是れなり」という一文があります。
入矢義高先生は、岩波書店の『臨済録』において、「君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。」と訳されています。
山田無文老師は、禅文化研究所の『臨済録』の中で、
「釈迦、達磨とは誰のことだ。祖仏とは誰のことだ。
即今、面前聴法底是れなりだ。
そこではっきりと話を聴いておる意識そのものが祖仏だ。
話を聴いておる意識そのものは、個人の意識ではない。普遍的な意識だ。
意識一般だ。
釈迦、達磨とちょっとも違っておらん。自動車がブーといえばブーと聞く。心理学者は条件反射と言った。当然の心理だ。当然の意識だ。普遍的な意識だ。俺だの彼だのという差別はない。そういう普遍的な意識そのものが分かれば、これが釈迦、達磨だ。」
と提唱されています。
さらに『臨済録』では「学人信不及にして、便ち外に向かって馳求す。設い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相のみ、終に他の活祖意を得ず」と述べられています。
無文老師は、
「ところが、みんな自分の意識そのもの、自分の心そのものが祖仏であり、人間性そのものが絶対であるということに気がつかないから、あの本じゃ、誰々の説教じや、誰々の会じゃというて、外に向かって求めて行くのである。
いくら、そんなものをかき集めて来ても、それは活字で印刷しただけのものじゃ。
自分のものではない。真実の生きた仏の働きはそんなところにはない。
活鱍鱍地に生きておるものは本ではなく、他人ではなくして、自分みずからの意識だけである。これをつかまなければ、活祖意をつかむことにはならん。」
と提唱されています。
また、無文老師は、「自分の意識以外にこの世の中に大事なものがあると思ったらいかんぞ。
鐘が鳴ればゴンと聞き、太鼓が鳴ればドンと聞く、
花が咲けば紅と見、柳が芽を出せば緑と見ていく、このお互いの意識そのものが絶対だ。これが活祖だ。達磨であり、釈迦である。一番大切なものは自分の意識だ。」と説かれ、あるいは「諸君がどんな学問を学んでも、大事なのは学問ではなく、一番立派なのは、それを学んでいく自分の意識である。どんな哲学よりも、哲学を理解していく諸君の理性そのものが一番立派なものじゃ。釈迦、達磨はお互いの意識そのものの中にあるのだ。」とも説かれているのです。
はたして、この聴いているものは何ものなのか。それこそが仏であると臨済禅師は説かれているのですが、無文老師がそれを「意識」と呼ばれるのは、どういう意味なのでありましょうか。
初期仏教では、色・受・想・行・識の五蘊は、すべて無常であり、苦であり、無我であると説かれます。
音を聞く意識そのものを、永遠不変の普遍的実体としてみるのならば、仏教の説には反してしまいます。
それを仏と呼ぶのも問題であります。
意識を実体視してしまうと、長沙禅師が「無量劫来生死の本。癡人は喚んで本来の人と作す」と批判されたように、遠い過去から生死輪廻を繰り返してきた迷いの根本を、本来の人だと呼んでしまうことになります。
このような思想が生まれた背景には、インド大乗仏教から伝わった如来蔵思想や仏性思想、そして中国で発展した『大乗起信論』の思想があると考えられます。
まず如来蔵思想では、煩悩に覆われている衆生にも、本来、仏となる可能性、仏性と呼ばれるものが具わっていると説かれます。
『涅槃経』にある「一切衆生悉有仏性」という言葉がよく知られています。
さらに『大乗起信論』では、一心に真如門と生滅門という二つの側面を認めます。
この考え方では、迷いの心と悟りの心とを、まったく別々の実体とするのではありません。
迷いの心の根底に真如があるといえます。
さらに発展させたのが、やはりなんといっても馬祖禅師であります。
「即心是仏」と説き、「平常心是れ道」と説かれたのでした。
仏とは遠くにあるものではなく、見たり聴いたりする働きにこそ現れているというのです。
仏とは何かと問われて、その心こそが仏だと示したのです。
臨済禅師は、外に仏を求める心をやめ、今ここに働いているものを直に見よ、と説いているのです。
『臨済録』には、「唯、聴法無依の道人のみ有り、是れ諸仏の母なり。所以に仏は無依より生ず」という言葉があります。
「ただ法を聴いている無依の道人があり、それが諸仏の母である。それゆえ仏は無依より生ずる」という意味です。
ここで臨済禅師は、「無依の道人」という言葉を使っておられます。
無依とは、何ものにも依存しないこと、何ものにも執着しないことです。
『臨済録』には、「即今、聴法底の人を識取せよ、無形無相、無根無本、無住処にして活鱍鱍地なり。」とも説かれています。
臨済禅師が「聴法底の人」として示そうとしたのは、五蘊の一つとしての識を実体化したものではなく、あらゆる対象への執着から自由になり、今ここで生き生きとはたらいているものであると言えます。
意識の働きを「これが私の本体である」「これが永遠の仏性である」と実体化して執着してしまうのはよくないのです。
無文老師があえて「個人の意識ではない。普遍的な意識だ。意識一般だ。」と説かれているのは、自分と他人という分別を離れ、聞こえるものがそのまま聞こえているという、分別以前の働きを指し示そうとされたのだと察します。
馬祖禅師にせよ、臨済禅師にせよ、ご自身が仏とは何であるかを自覚し、体験されたことが、言葉となって表れているのだと思うのです。
言葉で説かれたことだけを見ていると、本質を見失います。
この生身の上に、生き生きと、ありありとはたらいているものを確かに感じ取られて表現されたのだと思うのです。
横田南嶺