佐々木先生と対談
八月の暑い日でしたが、日帰りで研究所に行ってきました。
佐々木先生とはこれまで何度も対談させていただいてきています。
今回もお互い心ゆくまで、思うことを語り合えたという思いであります。
対談では、まず仏教の中における禅について、禅というのは、そもそもどんな教えなのか、どんな特異性を持っているのかについて語り合いました。
それにはまず大乗仏教の特異性について考えてみました。
大乗仏教というのは、はじめから「大乗仏教」という一貫した思想として発展したものではありません。
最初に般若経典ができ、法華経や維摩経、涅槃経や華厳経、浄土経典などがそれぞれ独自にできあがってきたのでした。
それらが後に大乗仏教と総称されるようになったものです。
大乗仏教の初期を代表するものの一つが、般若経典です。
般若思想というと、「空」を説く教えです。
それが今までの仏教とは違って、大乗仏教と呼ばれるからには、その特異性があるはずです。
私はそれを人空と法空について考察してみたのでした。
人空と法空は、人無我、法無我とも言います。
一般に仏教思想史では、大乗仏教以前の仏教では「人無我」、後にいう「人空」について明確に説いていました。
人空、人無我というのは、端的にいうと、「私」という独立不変の実体は存在しないということです。
仏教ではもともと人間という存在を五蘊という五つの構成要素の集合であると考えます。
それは色・受・想・行・識の五つです。
五蘊については、「色」は感覚器官を備えた身体です。
「受」は感覚あるいは感受作用です。
「想」は認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用です。
「行」は能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求を言います。
そして「識」は認識あるいは判断のことです。
お互いの存在をこの五つの構成要素に分析すると、そのどこにも固定した「私」は見つかりません。
人間というのは五蘊が因縁によって仮に集まったものにすぎないのであって、これを人無我、人空と言います。
しかしその私を構成している構成要素までも空であると説いていませんでした。
初期の仏教においては、私の苦しみをいかに脱するかということが目的でありました。
私という実体はない、構成要素の集まりにすぎないと観ることによって、我への執着を離れ、苦から解脱することを目指したのです。
それでじゅうぶんだったのでした。
そこからそれぞれの構成要素については実在的に分析する傾向が強くなって行きました。
それが「存在の分析」とも呼ばれるアビダルマ仏教であります。
部派仏教でもあります。
それが大乗仏教、とくに般若経においては、「人」だけでなく「法」もまた空であるという「法空」が前面に出てきました。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「大乗仏教では、自我だけでなく、あらゆる物質的・心理的存在は、原因や条件によって生じ、滅するもの(縁起)であるから、不変不滅の実体をもたない(空)という思想があらわれ(法空)、人空・法空の両者を並べ説くことになった」と解説されています。
「法空をも説くことは、人空のみを説いた部派仏教に対する、大乗仏教の重要な特色である」とはっきり書かれています。
そして「たとえば部派仏教の最大の学派であった説一切有部は自我の存在は否定したが、それ以外のあらゆる存在を七五種の範疇に分類し(五位七十五法)、一切のものを実体的存在として認めた」と説かれています。
それまでの仏教では、私、我という「人」は仮の存在であっても、法にはそれぞれ固有の性質、実体があると考えたのです。
大乗仏教、とりわけ般若経の思想は、「私」に実体がないのであれば、その私を構成する五蘊などの法に、どうして固定した実体があるのかと問いかけました。
そこで「法空」が鮮明になってきます。
『般若心経』では、まさに法空を説いているのです。
『般若心経』では「五蘊によってできている私が空だ」というだけではありません。
五蘊そのものが空であると説いているのです。
それが五蘊皆空であります。
法というのは、私たちを構成している要素だけではありません。
ブッダの教法や、悟りまでもが法なのです。
そこで法空を説いている『般若心経』では、五蘊からはじまり、十二処、十八界、十二因縁、四諦、智慧までもが空であると展開しているのです。
法空を説くことによって、大乗仏教は独自に大いに発展しました。
法空によって、自他を固定的に分ける見方が崩れていって、自他の区別がなくなります。
「私」と「他人」を固定した実体として考えれば、これは私の苦しみ、あれは他人の苦しみと区別されます。
しかし、人も法も縁起によって成立しているのであれば、自己と他者を切り離すことができません。
そこで空であると観る、般若の智慧が深まれば深まるほど、自他の区別がなくなり、人の苦しみを我が苦しみとして、人々を救おうとする慈悲へと展開していくのです。
それまでの仏教では自分で作った業は自分で引き受けるしかありませんでした。
自ら悪業をなした者は汚れ、自ら善業をなした者は清められます。
他者が清めることはできないと説かれていました。
法空によって、自他を固定的に分ける見方が崩れていくと、他者の苦を我が苦として救おうとすることや、他者のために祈るという大乗仏教の実践も明確になってきます。
自分が積んだ善根を他者のために振り向ける「回向」の思想も、こうした自他不二の法空から来ていると考えられます。
迷いと悟り、生死と涅槃、凡夫と仏が、それぞれ固定した実体として存在すると認めるならば、仏道はまさに迷いを捨てて悟りへ趣くことになります。
法空を説くことによって、世間と出世間、生死と涅槃を、固定した二つの実体として分ける見方も崩れていくのです。
この世間にあって様々な営みをすることも、悟りの世界も、そこに区別はなくなります。
後に禅ではこの心がそのまま仏であり、日常の営みが仏道と変わらないという教えが出てくるもとになるのです。
法空を説くことによって大乗仏教は大いに発展して、禅もその流れから出てきたということについて語り合いました。
佐々木先生は、より一層分かりやすく解説してくださいました。
私も今までの解釈がより一層整理されて、深めることができました。
この対談については、書籍化する予定なので、その詳細について本になるのを楽しみにしていただきたいと思います。
横田南嶺