修行による自我増大
仏教は、はじめから無我を説いています。
無我とは、『広辞苑』には、
一番、我意のないこと。無心なこと。私心のないこと。「無我の愛」という場合です。
二番、我を忘れてすること。「無我の境」とか「無我夢中」という場合です。
それから、三番に仏教語として、我の存在を否定すること。無常・苦と共に仏教の根本思想の一つ。我は人間存在や事物の根底にある永遠不変の実体的存在(アートマン)。「諸法無我」という用例があります。
ここで問題にするのは、③の仏教語として「無我」であります。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「〈無我〉は執着、ことに我執の否定ないし超越を意味し、そのような無我を実践し続けてはじめて、清浄で平安なニルヴァーナ(nirvāṇa,涅槃)の理想が達せられるという。
初期の散文経典では。我(自我)を〈私のもの〉、〈私〉、〈私の自我〉の三種に分かち、いっさいの具体的なもの・ことのひとつひとつについて、「これは私のものではない」「これは私ではない」「これは私の自我ではない」と反復して説く。
これらを統括して,〈諸法無我)の著名な術語が普遍化する。」
と解説されています。
私というのは、身体や感覚や表象や意志や認識が集まって、仮にそこにあるかのように見えるに過ぎない幻影のようなものだと説くのです。
しかし、「私」という固定した実体はないけれども、それを構成している諸要素、すなわち「法」は実在すると考えたのが、説一切有部などのアビダルマ仏教でした。
さらに、その「法」そのものにも固定した実体はなく、空であると説いたことが、大乗仏教の大きな展開となったのです。
法無我は、一切の法を無我と説くのですから、私たちを構成する要素はもとより、修行も悟りもすべて空であり実体がないというのです。
佐々木先生との対談では、法無我、法空という大乗仏教への発展から、禅の教えの特徴について語り合いました。
禅というのは、これが禅であるという固定した実体的な教説を立てないので、そのあり方そのものが無我の思想とよく呼応しているとも言えます。
佐々木先生は、禅の特徴として、「禅というのは特定の世界観を持たないですね」と仰いました。
「禅が使う世界の構造というのはどういうものかは、誰も言ってくれない。
対症療法的に、その時その時の言葉は出てきますけれども、世界はこうなっているので、我々はここに位置して、だからこの我々が別の場所でこう自分たちを移動させるにはどのような努力をしたらいいかという、そういうシステマティックな教えはないです。」というのです。
そこで私は「禅には教科書はない」と申し上げました。
「このシステマティックに語らないというところが、禅の融通さというのを生み出してきた」と指摘されました。
どんなものを持ってきても禅として解釈できるようになってしまうのです。
禅とお茶、禅と剣、禅と弓、はてはこの頃の禅とジブリに至るまで、なんに対しても親和性を見いだしていけるのです。
しかし、禅の問題点もあります。
無我の教えが発展してきたのが禅でありながら、禅の修行が自我を増大させてしまうことになり得るという問題があります。
禅の修行では「無になる」という修行をします。
我もなく、人もなく、世界もないという深い禅定に入る修行をします。
自我を否定して、限り無く自我を小さくしていく修行のはずです。
それが、「自分はこれだけ坐禅した」、「何則公案を通った」、「何年修行した」、「禅こそが優れた教えだ、正統だ」という方向へ行けば、これでは世俗的な自我が「仏教的な自我」に着替えただけとも言えます。
「公案を何則通った」「どこそこの僧堂で何年修行した」はては「誰それの法を嗣いだ」「臘八といって一週間横にならずに修行をしたのだ」というものが自己を確認するための材料となってしまいます。
これでは、修行したということがそのまま自我の鎧になってしまうのです。
これが大きくなると、寺や教団や宗派というものになります。
自我が恐ろしいのは、必ずしもこの身体一個に限らず増大していくことです。
人間は容易に自我を拡大してゆきます。
はじめは自分一人のことから始まって、私の家族、私の家、或いは私の寺、それから 私の宗派、私の教団、私の国とどんどん自己を拡張します。
これが大きくなって争うようになると戦争になってしまうのです。
私を無くす修行をしたはずなのに、私の寺、私の宗派、私の教団には、執着してしまうことをよく見受けます。
もっとも寺を大事に守ること、教団を維持すること、伝統を次世代に伝えること、それ自体が我執だというのではありません。
問題は、何のために守るのかです。
「私たちの教団を存続させること」そのものが最終目的になると、かなり危うくなります。
苦しんでいる人に仏法を伝えるために、この寺が必要である。
後の世代にも仏法に触れる場所を残すために、この教団を維持する。
というのであれば、教団は「目的」ではなくなります。
大きな理想を実現するためにあると観るのです。
寺のため、教団のためではないはずなのです。
そして重要なのは、それもまた空であるということです。
まさに法空、法無我なのです。
大事にしながらも執着しないのです。
人を救うための寺が、苦しみの原因になってしまっていたらどうにもなりません。
寺も宗派も、さまざまな因縁によって成り立つもので、大切にしながらも、絶対化しないし、執着もないというのが法空、法無我であります。
禅の修行は自我を否定して、自我を超えるためにあります。
しかし、それが却って自我を強化することがあることには気をつけないといけません。
厄介なのは、世俗的な自我よりも宗教的な自我の方が、自分では気づきにくいのです。
「私はお金が欲しい、名誉が欲しい」というのはすぐに欲だと分かります。
ところが、「法のためだ」とか、「寺を護持するためだ」「教団や宗派のため」となると、自我の執着が非常に立派な衣をまとってしまって、人からも立派に見えて、自分でも気がつかなくなってしまうのです。
更に佐々木先生とはお釈迦様が否定された苦行の意味についても話し合いました。
もともとはお釈迦様が実際に体験なされた身体を過酷に痛めつけるという苦行を否定されたのです。
そこで私は、現代の修行の問題について考えるなら、否定されるべき苦行とは、自我を増大させるような修行ではないかと申し上げました。
佐々木先生もこの視点をお認めくださいました。
人間は常に自我を増大させていくものだと思って、常に自己を見つめ、これは自我ではないか、自我を増大させていないかと確認する修行を怠らないようにしなければなりません。
それには時に、内観や浄土門の念仏など、禅以外の修行や教えに触れることも大切だと思っています。
横田南嶺