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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.07.15
今日の言葉

喫茶去

「喫茶去」という禅語があります。

この言葉の解説は難しいものです。

『禅学大辞典』で調べてみますと、

「まあ、お茶でも召し上れ、の意。趙州従諗のことばで、趙州喫茶去ともいう。喫茶という日常生活のありようが、実は、佛法そのものであることを表現している。」

と解説されています。

松原泰道先生の『禅語百選』にも、

「喫茶去の字面の意味はただ“お茶を召し上がれ”です。
去は喫茶の命令形を強める添字、助字で、意味はありません」と書かれています。

「喫茶去」は『碧巌録』第二十二則の評唱にも出ていますので、山田無文老師の提唱を調べてみても、「喫茶去」を「お茶でも飲まっしゃい」となっています。

平田精耕老師の『禅語辞典』という書物にも、

「「喫茶去」の去とは助辞で意味はなく、全体で「お茶でも飲みませんか」という程度の意味です。」と書かれています。

そのあと、次のように書かれています、

「喫茶去」の言葉が用いられた趙州和尚と修行僧との問答です。

あるとき、趙州禅師が一人の僧に、「曽て此間に到るや」(あなたはかつてここに来たことがありますか)と尋ね、僧が「曾つて到る」(あります)と答えると、「喫茶去」といいました。

また、別の僧に「曾って到るや」と尋ね、僧が「曾つて至らず」(ありません)と答えると、また「喫茶去」といいました。

そこで、院主が趙州に対して、「和尚尋常僧に問う、曾つて到ると會つて至らざると、総にいうに喫茶去と、意旨如何」(ここへ来たといっても、来ないといっても、一様にお茶でも飲みませんかといわれるのはどういうわけですか)と尋ねると、

趙州はそれには答えずに、
「院主さん」と呼びかけ、「喫茶去」といわれたというわけです。」

と書かれています。

これが公案であります。

平田老師は「このように三人の僧に同じく「喫茶去」といったのは、趙州が相対的な分別意識というものを断ち切った絶対の境地・悟りの心境にあるからです。」と説かれています。

更に「ここで、趙州禅師は、来るとか来ないとかいうことを超えた世界のことを、喫茶去ということばで表わしています。

そこから仏の世界には来るとか来ないという区別はないことを説かれて、「来たということも、来ないということも同じことで、その同じことだぞということを表わすために、趙州禅師は喫茶去という同じ答えで三人の僧に応対したわけです。」と説かれています。

それが最近ではこの解釈が大きく変わっています。

入矢義高先生は『禅語辞典』の中で、

「「喫茶去」という禅語がある。茶室の掛け物などでもよく見かけるものであるが、普通その意味は「まあ、お茶を一杯お上がり」と解されている。誤りである。正しくは「茶を飲んでこい」または「茶を飲みにゆけ」という意であって、あちらの茶堂(茶寮)へ行って茶を飲んでから出直してこい、という叱責なのである。

「まあ、お茶をお上がり」というのは、「且坐喫茶」(且く坐して茶を喫せよ)と混同した誤解であるが、しかし日本では古くからこの誤解が伝統的に受け継がれてきた。

本来なら「喫茶去」と言われたとたん、ギョッとなって怱々に退散せねばならぬはずである。誤解がそのまま無反省に正統として踏襲されるというのは、敢えて言えば、日本禅に特有の独善的な体質の一つの現われでもあろうか。」

と解説されています。

「喫茶去」は「お茶でも召し上がれ」ではなく、「お茶を飲んで出直して来い」という叱責だというのです。

小川隆先生もまた『中国禅宗史』の中で、この趙州和尚の問答を次のように訳されています。

新しくやってきた二人の行脚僧に、趙州禅師が問われた。
「貴公、前にもここへ来たことがあるか?」
「いいえ、ございません」
「うむ、下がってお茶を飲みなさい」
もう一人にも、問うた、
「前にもここへ来たことがあるか?」
「はい、ございます」
「うむ、下がってお茶を飲みなさい」

岩波書店の『仏教辞典』にも

「喫茶去「茶を飲みに行け」の意.動詞句に後置された〈去〉は,「~しに行く」の意を表す。趙州従諗の以下の問答で用いられ、非常に有名な句となる」と説かれていて、そのあと、趙州和尚の問答が書かれています。

そして「のち日本では〈且坐喫茶〉(且らく坐して茶を喫せ、まずは坐ってお茶をどうぞ)と混同され、〈喫茶去〉も「お茶を召し上がれ」の意と誤解されるようになった。」と書かれているのです。

この解説がまさに当を得ていると思われます。

今もお寺には「喫茶去」の書が床の間に掛けられたり、額に掛けられたりしています。

もしも誰かにこの「喫茶去」というのはどういう意味ですかと問われたら、どう答えたらいいのでしょうか。

「茶を飲みに行け」というのが今の正しい解釈でしょうが、少なくともその書を書かれた方はどういう気持ちで書かれたかと思うと考えてしまいます。

またその「喫茶去」の書を掛けているお寺の和尚はどういう気持ちで掛けているのかと考えると、それは「お茶でも召し上がれ」という気持ちで書かれたり、掛けられたりしていると思われます。

そこで私ならば、「これは難しいですね、まあお茶でもどうぞ」と申し上げましょう。

 
横田南嶺

喫茶去

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