禅とは – 定義できないもの –
昨年は「中国禅宗史入門」として禅宗の歴史を七回にわたって講義をしてもらいました。
本年度は「禅宗略論」と題して、講義をしてくださいます。
最初に小川先生は、「禅宗」といいながらも、そもそもその「禅とは何か」という問いに、簡単に答えることはできないのだと仰せになりました。
そして小川先生は、『中国・日本〈漢〉文化大事典』(明治書院、二〇二四年刊)の「禅」という項目を執筆されたことをお話しくださいました。
普通、辞典の項目であれば、「○○とは何か」という定義から書き始めますが、「禅」については、どうしても「禅は定義できない」というところから書き始めざるを得なかったというのです。
小川先生が、執筆されたその禅についての項目をそのまま引用させてもらいます。
「禅の特徴を一義的に規定することは難しい。「一句合頭の語、万劫の繋驢橛」という禅語がある。真理をピタリと言いとめた一句は、永遠にロバを繋ぎとめる棒クイとなるという意味である。一つの規定に嵌入されず、唯一絶対の「真理」によって繋縛されない、それこそがいにしえの禅僧たちのめざすあり方であった。禅にはまた「説似一物即不中」ということばもある。「一物を説似せば即ち中らず」、何物かであると言えば、もうそのものからはハズれてしまう。禅の本質はいかなる事物とも同定しえず、いかなる概念もあてはめ得ない。「禅」とは、と、定義しようとしたとたん、それと相反する表現が禅籍の中から次々と出てきてしまう。謹厳と洒脱、沈黙と哄笑、容赦なき聖性の否定と大らかな現実肯定……、禅の性格は多くの矛盾に満ちている。矛盾する両極の緊張の上にこそ、無定形の禅の生命が活きて躍動しているのだと言ってもよい。」
というものです。
なるほど、これは禅の特徴をよく言い表しています。
「説似一物即不中」とはまさにその通りで、何物かであると言えば、もうそのものからはハズれてしまうのです。
それだから禅の修行では、何をいっても、ただそうではない、それではない、違うと言っては否定されるのです。
ただただ否定され続けます。
それによってなにものにも規定されないものを体得していくのです。
もっとも体得したといったら、もうすでに違っているのです。
鈴木大拙先生の言葉も引用されました。
「一方では禅坊さんの、豪放で、洒落で、如何にも屈託のない所を見せつけられながら、又一方では如何にも綿密で、水も漏らさぬ陰徳的生活、その上に枯淡淡泊そのままの身のまわり、――世間体には余り見られぬ光景であった。」というのです。
これは岩波文庫の『禅堂生活』にある言葉です。
これには小川先生のお導きで、解説を書かせてもらったものです。
二〇一六年の出版ですので、もう十年前のこととなります。
では、一般には禅はどのように理解されているかというと、『新明解国語辞典』には「座禅によって悟りを開こうとする仏教の一派」とあります。
これは確かに間違いではありませんが、小川先生は、坐禅は禅宗だけのものではないので、禅宗を「座禅の宗教」とだけ説明することには疑問を感じると指摘されていました。
禅宗が成立する以前から、中国の高僧伝には「修禅篇」があり、多くの僧侶が坐禅を実践していました。
坐禅は仏教全体に共通する修行法であって、禅宗だけのものではないというのです。
では禅宗の特徴はどこにあるのか、小川先生は、そこで最も重要な考え方として、「即心是仏」を示してくださいました。
小川先生は中国語の先生なので、文法について詳しく教えてくださいます。
A是Bというと、AはBであるという意味になります。
そのAの前に「即」の字がつくと、「ほかならぬAが」という意味になるのです。
即心是仏は、ほかならぬあなたの心が仏であるという意味です。
ただし、ここでいう心とは、心の奥底に潜んでいる特別に清らかな心というようなものではありませんし、また修行を完成した後に現れる心でもありません。
迷い、悩み、喜び、悲しみながら生きている、この生身の心そのものが仏であるというのです。
禅宗以前の仏教では、成仏とは気の遠くなるような長い修行の果てに到達するものと考えられていました。
それを三阿僧祇劫といいました。
まさに無限といってもいいほどの長い長い時間をかけて修行し、その果てにようやく仏になると説かれていたのでした。
それがその心こそが仏である、もともと仏であると、ことさらに修行することもないと説いたのですから、小川先生は、当時の伝統の仏教からすれば異端邪説だと言われました。
その通りだと思います。
それだからこそ、徳山禅師はまだ禅に参じる前に、南方には禅という魔の一派が即心是仏などととんでもないことを言っているので、その邪説を破ってしまおうと意気込んで出かけたのでした。
それがあろうことか、茶店のおばあさんと問答してやり込められてしまい、禅に参じるようになったのです。
私たちは仏になるのではなく、本来仏であるという事実に目覚めるのである、これが禅宗の根本的な立場だと教えてくださいました。
そして、この考え方からもう一つ重要な特徴が生まれます。
それは「聖なる境地への執着の否定」だというのです。
禅宗以前の仏教では、深い禅定に入り、神通力を得ることが高い修行の証と考えられることがありました。
しかし禅宗はそうした特別な境地に価値を置きません。
百丈懐海禅師の逸話を示してくださいました。
ある夜、百丈禅師がお湯を飲みたいと思ったところ、土地神という土地の神様がその思いを察して侍者に知らせたのです。
それで百丈禅師のもとにお湯が運ばれてきました。
すぐれた高僧なればこそと感心されるかもしれませんが、百丈禅師は「私はまだ修行が足りない。土地の神に心を見抜かれるようではだめだ」と反省したのです。
また牛頭法融禅師の話もしてくださいました。
これはよく引かれる話です。
牛頭禅師が修行中、鳥が花をくわえて供養に来たと伝えられます。
しかし四祖禅師のもとで修行して法を受け継いだ後は、鳥が来なくなったという話です。
それはなぜかというと聖者としての特別な境地すら忘れ去ったからだというのです。
禅は修行して何か特別な人間になることを目指しているのではありません。
最後に小川先生は「禅」とはという問いに答える仮説として
自己の心こそが仏であるという活きた事実を、
②活き身の自己と目前の現実に即しつつ、
③問答を通して求道者自身に自ら悟らせる宗教。
④しかし、その悟りは、やがて忘れ去られねばならない
と示してくださいました。
「悟りとは気づきの連続である」という私の言葉を引用して、なにか聖なる境地に留まってはいけないし、聖なる境地を忘れ去ればいいのかというと、聖なる境地を忘れ去ったという新たな聖なる境地にしてはならないのだと言われました。
無限にその先があり、悟りには到達点はないのです。
聖なる境地の否定というのが、即心是仏という考えから出てくる禅宗の基本的な性格になっていると示してくださいました。
これから更に講義が続いていくのが楽しみであります。
横田南嶺