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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.06.27
今日の言葉

廃仏の要因は?

「廃仏」という言葉があります。

『広辞苑』には「仏法を排斥すること。仏教弾圧。仏教側からは、法難という。中国では、北魏・北周・唐・後周で実施されたものが著名」と書かれています。

三武一宗の法難といって、「中国で仏教を排斥した四人の皇帝。北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗を指していう。」と解説されています。

禅の歴史では、この中で唐の武宗の廃仏が大きく関わっています。

これは武宗が西暦八四五年、長安、洛陽などの大都市の数寺を残すだけで、他の寺院はすべて財産を没収したうえで廃毀されました。

四千六百の寺が壊され、二十六万人余りの僧尼が還俗させられたのであります。

潙山禅師や臨済禅師などもこの時代を生きられています。

潙山禅師などは還俗させられていたのでした。

武宗は熱心な道教信者で、不老長生を求めて道士を重用しました。

仏教を外来宗教として嫌い、道教を優遇したことも要因のひとつであります。

廃仏は八四六年の武宗の死によって終わりますが、荘園経営によって経済的な豊かさに安住していた仏教教団は大きな打撃を受けたようです。

その反面で、寺院に依存することの少なかった禅が後の宋代仏教の主流となったとも言われています。

豊かになると、それはまた危うくなるのであります。

日本では「廃仏毀釈」と言われています。

明治政府によって明治元年に出された神仏分離令がもとになって、寺院を破却し僧侶を還俗させるなどの仏教廃止運動となったのであります。

明治の前までは全国いたるところで寺院と神社はひとつになっていました。

これを神仏習合といいます。

日本の宗教の大きな特徴です。

神仏習合といっても、檀家制度に支えられた寺院は経営が安定しており,神社を支配していることも少なくなかったと言われています。

江戸時代には、幕府のキリシタン禁止の為に寺請状をお寺に作らせていました。

キリシタンを排斥するために、日本人全体がいずれかの寺の檀家になることが義務づけられていたのでした。

寺請状は、キリシタンではないことの証明書でした。

縁組・旅行・移転・奉公など身分異動や地理的移動の際に身分証明書として寺から受けることが義務づけられていました。

お寺から寺請状をもらっていないと、婚姻も旅行もままならなかったのでした。

これを寺請制度といいますが、寛文四年一六六四年に身分と職業を問わず,全国一律に施行されたのです。

お寺は国の機関でもあったのです。

この寺請制度は幕藩秩序を保つために有効でした。

そうして檀那寺と檀家との関係が固定されます。

お寺は、檀家に寺の護持の責務を課することになりました。

お寺は権力を持ち、財を保証されるようになったのでした。

こういう安泰な暮らしが、実は僧侶の堕落を招く原因ともなったのでした。

徳川幕府が滅ぶと、廃仏の動きが出てくる要因の一つであったということができます。

この檀家制度は、実際には明治維新後、明治四年一八七一年に戸籍制度が整備されると、寺院の宗門改めの機能は国家に移されて終わるのです。

しかし、この制度は江戸時代に何百年も続いた習慣のため、先祖代々の墓が寺にあることや、葬儀や法事を寺が行い、寺の維持費を檀家が支えるという関係はそのまま残っています。

また江戸時代には儒教や神道の立場から排仏論が高まっていました。

臨済の僧から朱子学者に転じた藤原惺窩は、仏教そのものを否定したわけではありませんが、儒教の立場から仏教を批判しました。

儒教において最も重視される徳目は孝であります。

親を敬い、家を守り、社会秩序を維持することが人間の本分と考えられていました。

しかし仏教は出家を理想とし、家族や社会から離れて修行する道を説きます。

惺窩はこれを「人倫を軽んじる教え」と見ました。

また仏教の空の思想についても、現実社会を治める実践的な学問とはなり得ないと考えました。

惺窩は、それまで知識人社会の中心であった仏教を批難して、儒教を社会秩序の基礎として位置づけたのです。

その弟子が林羅山で、徳川家康に仕え、幕府の学問的基礎を築いた人物です。

羅山は惺窩以上に仏教批判を強め、仏教を「異国の教え」と位置づけ、日本の政治や倫理の根本は儒教にあるべきだと主張しました。

この流れをさらに進めたのが山崎闇斎でした。

闇斎も若い頃に出家して妙心寺で修行していましたが、二十九歳で還俗して朱子学へ転じました。

闇斎の特徴は、儒学と神道を結びつけたことにあります。

闇斎は垂加神道を創始しました。

伊勢神道、唯一神道の系統をひき、朱子の説を加えて確立されたものです。

皇統守護を本旨とし、国学や水戸学とともに尊王思想の発達に貢献しています。

「日本本来の道は神道であり、仏教は外来の教えである」という発想が強まっていったのです。

こうした思想はやがて国学へ受け継がれます。

国学というのは、「儒教・仏教渡来以前における日本固有の文化・精神を明らかにしようとする学問」です。

国学者の本居宣長は、必ずしも激しい排仏論者ではありませんでしたが、中国思想や仏教によって覆い隠された日本固有の精神を探求しました。

更に平田篤胤は仏教を厳しく批判しました。

仏教は外国から伝来した思想として、日本民族の精神を強調しようとしました。

そして篤胤の学説は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。

そうして天皇を中心とする国家の再建を目指す動きとなったのです。

こうしてみると、寺請け制度によって寺院が力を持ち裕福になり修行を怠るようになっていたこと、儒教や国学の影響で仏教が批判されていたことなどが要因となって廃仏になっていったと考えられるのであります。

 
横田南嶺

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