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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.06.29
今日の言葉

真民詩のこころ

先日は東邦大学看護学部の研修会で、お話をさせてもらいました。

毎年円覚寺に来て一日研修をなさっています。

今年は坂村真民先生の詩を紹介しました。

お若い人たちに真民詩のこころを知ってもらいたいと思ったのでした。

坂村真民先生は、お坊さんではありませんが、愛媛県で学校の先生をしながら、多くの人々に深い感動を与える詩を残された方です。

真民先生は明治四二年(1909)に熊本県に生まれ、平成十八年(2006)に九十七歳で亡くなられました。

長い生涯を通して数多くの詩を作り続けました。

その代表作はなんといっても『念ずれば花ひらく』の詩です

念ずれば花ひらく
 念ずれば
 花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうして
そのたび
わたしの花が
ふしぎと
ひとつ
ひとつ
ひらいていった

この詩は、読んだだけで意味が伝わってきます。

難しい言葉はありません。

ただここでいう「念」とは、特別な念力や超能力のことではありません。

心に強く願い、信じ続けることです。

強く思い信じて努力を続ければ、人生の花は開いていくのです。

そのことを語った詩です。

まず注目したいのは、「苦しいとき、母がいつも口にしていた」という一節です。

「念ずれば花ひらく」の言葉は、真民先生のお母様が口癖にしていた言葉でした。

そして真民先生自身も、いつしかその言葉を唱えるようになったのです。

では、なぜお母様がこの言葉を口にしていたのでしょうか。

真民先生は熊本県で生まれました。

お父様は小学校の校長先生で、広い庭のある大きな家に住み、家族は幸せに暮らしていました。

しかし、その幸せは真民先生が八歳の時に突然終わりを告げます。

当時四十二歳だったお父様が、がんで急逝されたのです。

その時、お母様は三十六歳。残された子どもは五人でした。

十一歳の長女、八歳の真民先生、六歳の妹、三歳の弟、生後十一か月の弟です。

現代でも、三十六歳の女性が五人の子どもを一人で育てることは大変です。

まして当時のことを思うとなおさらです。

ある日、お母様の母親、つまり真民先生のお祖母様が訪ねてきました。

そしてこう言ったのです。

「上の三人は奉公に出すか養子に出しなさい。下の二人だけを連れて実家へ帰ってきなさい。」というのでした。

奉公とは、住み込みで働いて養ってもらうことです。

今こんな話を聞くとひどいことのように思いますが、当時としては珍しいことではありませんでした。

この話し合いを、八歳の真民少年は隣の部屋で聞いていたといいます。

もしお母さんが承知すれば、自分は翌日から見知らぬ家へ行かなければならないかもしれない、そのことが子ども心にも分かっていたのでしょう。

説得は昼から始まり、夜中まで続きました。

しかし、お母様は最後まで「はい」と言いませんでした。

翌朝、お祖母様は帰っていきました。

お母様は、五人の子どもを誰一人手放さず、自分一人で育てる決意をしたのです。

これこそが母の深い愛です。

もちろん生活は苦しく、真民先生も家計を助けました。

それでもお母様は、くじけそうになるたびに自らを励ますように、
「念ずれば花ひらく」
と唱え続けたのです。

「この子たちは私が育てる。誰一人寂しい思いはさせない。」

そう強く願う母親の深い愛情こそが、この「念」だったのです。

特別な力ではありません。わが子を守りたいと願う母親なら、誰もが持っている心です。

その後、お母様の願いどおり、五人の子どもたちは皆立派に成長しました。

ではこの言葉を真民先生もどうして唱えるようになったのでしょうか。

真民先生は愛媛県で教師となり、学校教育に携わる一方で、熱心に坐禅を組み、仏教を学びました。

しかし四十代の頃、大きな試練に直面します。
病気になってしまい、医師からは「がんかもしれない」と告げられました。

目も悪くなり、眼科医からは「このままでは失明するかもしれない」と言われます。

今でこそ検査技術は進歩していますが、当時は診断も難しく、「がんかもしれない」と言われれば、それは死を意識させられるような宣告だったと思われます。

三人の娘を抱えていた真民先生は絶望します。

そんな時、宇和島の護国神社で祈っていた先生の心に天啓のように聞こえてきたのが、亡き母の「念ずれば花ひらく」という言葉でした。

その言葉を思い出し、真民先生は、生きねばならぬと決意します。

その強い願いが心を変え、さらに良き人との出会いや食事療法などもなされ、病は快方へ向かいました。

目も再び見えるようになりました。

これが詩にある、

わたしの花が
ふしぎと
ひとつ
ひとつ
ひらいていった

という体験だったのです。

そして真民先生は九十七歳まで長生きし、九十六歳まで詩を書き続けました。

まさしく真民先生ご自身「念ずれば花ひらく」ご生涯だったのです。

続いて、『手が欲しい』という詩を紹介しました。

手が欲しい
目の見えない子供の描いた
お母さんという絵には
いくつもの手がかいてあった
それを見たときわたくしは
千手観音さまの実在を
はっきりと知った 
それ以来あの一本一本の手が
いきいきと生きて
見えるようになった
異様なおん姿が
少しも異様でなく
真実のおん姿に
見えるようになった
ああ わたくしも手が欲しい
ベトナム・パキスタンの子らのために
インド・ネパールの子らのために

という詩です。

真民先生が、目の見えない子どもの書いた「お母さん」の絵を見たのでした。

普通ならお母さんの顔を描くことでしょう。

しかし、その子はお母さんの手を何本も描いたのです。

目の見えない子どもにとって、お母さんとは手だったのです。

いつも自分の手を引いてくれる手。
食事をさせてくれる手。
服を着せてくれる手。
身体を洗ってくれる手。

いつも自分を支えてくれる手こそが、お母さんだったのです。

その絵を見た時、真民先生は千手観音の意味が分かったと言います。

仏教には千本の手を持つ千手観音がおられます。実際には千本の手を表現するために四十数本の手で表されることが多いのですが、その意味が初めて実感として理解できたのです。

千手観音とは、人を慈しみ救おうとする無限の働きの象徴です。

目の見えない子どもを支える母親の心もまた、千手観音の心そのものでした。

私たちも振り返れば、親や家族だけでなく、数えきれない人々の手に支えられて今日まで生きてきました。

その手の数は千本どころではありません。

だからこそ真民先生は最後にこう願います。

ああ わたくしも手が欲しい
ベトナム・パキスタンの子らのために
インド・ネパールの子らのために

苦しむ人々のために、自分もまた一本の手を差しのべたいという願いです。

この詩から学ぶべきことは、まず自分がどれほど多くの手に支えられて生きてきたかを知ることです。

そして、そのことに気づいたなら、今度は自分が誰かを支える一本の手になろうと願うことです。

看護学部の学生さんたちもまた、人に手を差し伸べる尊い仕事に就かれるのであります。

真民詩のこころを受け継いでほしいと願ってお話させてもらったのでした。

本日で管長日記も二千回となりました。

また本日ライブ配信を予定しています。

聞いてくださる皆様のおかげであります。

有り難うございます。

 
横田南嶺

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