これこの通りとはいっても
いつものように小川隆先生の『宗門武庫』のご講義と、私が『臨済録』の一節を講義しています。
小川先生のご講義は、前回の続きであります。
洪州奉新県(江西省)の慧安院に住した恵淵という方の話です。
恵安院は、街道に面して当時の名刹を行脚する修行僧たちの通り道であり、行脚の僧たちは必ず投宿するような寺でした。
当時の寺では行脚の僧が来ると、宿泊や食事のお世話をする習慣でありました。
あとの文脈からも分かることなのですが、この恵安院は、それほど寺の収入があったわけではないようで、それでいて多くの修行僧たちの宿泊や食事の世話もしなければならずで、誰もその寺の住持にはなりたがらなかったのでした。
真浄禅師が恵安院の住持を推挙するように知事から依頼されて、会下の者たちに勧めてみるのですが、皆嫌がっていたのでした。
そこで恵淵という方が自ら行こうと申し出ました。
この方はすでに悟りも開いていたのですが、皆に交じって黙々と修行をしていたのでした。
当時湛堂禅師が修行僧の頭で、恵淵さんに、「あの寺に入ってどのように住持されるのか」を聞きました。
恵淵さんは、「私には福がありませんので、広くあらゆる方々と縁を結ばねばなりません。自分で荷を負うて托鉢して、大衆を養おうと存じます」と答えました。
湛堂禅師はこの言葉を聞いて「あなたでなければできないことです」と言います。
このところを説明なされるのに、小川先生は、今回気づかれたこととして、この湛堂禅師は、真浄禅師のもとで修行僧の頭なので、当然恵安院に行ってみないかと勧められて、断った方の一人であると言われました。
自分にはとても無理だと思ったところに恵淵さんが自ら行かれるというのですから、それは私などにはできないことです、恐れ多いことです、たいしたものですという畏敬の念を持って言われたのであろうと解説されました。
その人の立場や状況を鑑みて読むとあじわいが深くなります。
また『宗門武庫』を書かれた大慧禅師もかつて真浄禅師に参じたことがあるので、真浄禅師からこの恵淵さんの話を聞いた可能性が高いとも説かれていました。
このように考察を深めていくと、前回読んだ時よりも、物語に厚さ、深さが出てきます。
そして湛堂禅師が贐の詩を送ります。
恵淵さんは、慧安院に入って、日々托鉢にはげみ、行脚の僧がくれば招いて接待してあげていました。
それから三十年、その姿は雨の日も風の日も変わることがなかったのでした。
しかもそれほど裕福ではないと思われますが、寺内の改修も進めて、仏殿や輪藏、羅漢堂などを建てて整備されたのです。
その恵淵さんが亡くなった後、荼毘にすると、六根のうち三つが焼けずに残り、無数の舍利が得られたと言います。
後年、奉新の地が流賊に襲われて焼野原になった時があったのですが、慧安院の諸殿だけは堂々とそびえ立ったままだったというのです。
「これが誓願の成就、神々のご守護の賜でなくてなんであろう。今時、労せずして、すでに出来上がっている寺を引き継いでおるような者は、この恵淵の遺風を聞いて慚愧の念を覚えずにおられるであろうか。」と結ばれていました。
恵淵さんという方は、真浄禅師や大慧禅師のように禅の歴史に名を残したわけではないのですが、実直で道心の厚い素晴らしい方であったことが分かります。
そのあと私が『臨済録』の一節を取り上げました。
行録にある問答です。
岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。
象田和尚のところへ行って、師は問うた、「凡夫でもない、聖者でもない、そこをすぱりと言って下さい。」田「わしはただ見ての通りだよ。」師はすぐに一喝して言った、「そこいらの雲水どもは、ここで一体どんなメシを目当てにしておるのだ。」
という問答です。
凡でもない、聖でもない、迷いでもない、悟りでもないところをすぱりと示してくださいと問われて、この象田和尚は「老僧は祇だ与麽。」と、ワシはただ見ての通り、この通りこのままだと示しました。
これは馬祖禅師が、「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。
もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。
もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。
何をあたり前の心というのか。
ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。」と『馬祖の語録』に示されているように、当たり前の姿を示したのです。
しかし、臨済禅師はそれを許しません。
ただありのままでいればいいとおさまりかえっているのを許さないのです。
のちに臨済禅師は、「諸君、出家者はともかく修行が肝要である。わしなども当初は戒律の研究をし、また経論を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。その後、大善知識に逢って、始めて真正の悟りを得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。」と説かれています。
やはり修行して真正の悟りを求めることが必要なのです。
その結果体究錬磨して、このままでよかったと気がつくのです。
そうすると「天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るように」なれるのです。
臨済禅師は、この象田和尚は、このままでいいと思いに安住してしまって、修行僧達を導く手段に欠けているとご覧になったのでしょう。
そこで修行僧たちにも「ここで一体どんなメシを目当てにしておるのだ」と語気強く語るのです。
後に「人生は過ぎ易く、善知識には遇い難い。善知識の出現は優曇華が咲くように稀なことだ」と言っているように、すぐれた指導者を求めて行脚せよと勧めているのであります。
これこの通りですと言われても、そのまま受け入れるわけにはいかないものなのです。
横田南嶺