自由
『信心銘』という書物を残されています。
この方がお亡くなりになるときの様子が『楞伽師資記』に書かれています。
筑摩書房『禅の語録2初期の禅史』にある現代語訳を参照します。
「「世間の人々は、みな坐禅したまま死ぬのを尊び、めずらしいといってほめる。わたしはいま、立ったままで死のう、わたしにとっては、生きるのも死ぬのも思うままである。」こう言い終って、かれは手で樹木の技をつかむと、たちまちにして息がたえ気が尽きた。」
というのです。
「生きるも死ぬも思うままである」という言葉の原文が「生死自由なり」です。
自由という言葉について考えてみました。
『広辞苑』を調べると、たくさん書かれています。
まず第一番には、
[後漢書(皇后紀下、安思閻皇后)]心のままであること。思う通り。自在。古くは、勝手気ままの意に用いた。」
と書かれています。
「自由な選択」「自由にあやつる」という用例があります。
それから「②(freedom; liberty)責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。
一定の前提条件の上で成立しており、無条件的な自由は人間にはない。
また自由は、障害の除去・緩和によって拡大するため、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大とされる。
この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。」
と書かれています。
そのあとに社会的自由と意志の自由の説明があります。
更に倫理的自由について書かれています。
岩波書店の『仏教辞典』には「自由」について実に詳しく書かれています。
はじめに中国古典における用例が示されています。
そこから「いずれも<自(みずか)らに由(よ)る><自己に本(もと)づく>の意である」として「自己自身に立脚する、自己の主体性を堅持する、何ものにも束縛されずに自主的に行動するなどの積極的な意味を持つ。」と解説されています。
ここに、自由は自らに由る、自己の主体性を堅持するという意味であることがはっきり書かれています。
それから更に「これに対して『後漢書』にいう<自由>は、「惟(こ)れ辟(きみ)(君)福を作(な)し威を作す」〔書経洪範〕の<作福><作威>と同じく、自分の思い通りにする、勝手気ままにふるまうなどの反価値的な意味を持つ。」
とも書かれています。
自己の主体性を堅持するという意味と共に、勝手気ままという意味もあることが分かります。
自由には二種類の用法があるのです。
更に『仏教辞典』には、
「<自由>の語のこのような2種の用法は、中国仏教学においてもそのまま引き継がれて、「生死に染まず、去住自由なり」「他の万境に回換せられて自由を得ず」〔臨済録示衆〕などとある<自由>は前者の用法を承け、」
と書かれています。
自らに由る、主体性を堅持するという意味で使われている例として『臨済録』の言葉が示されています。
もうひとつの勝手気ままという意味で使われる例として「『注維摩詰経』方便品「是の身は無我」の僧肇(そうじょう)の注に「縦任自由、之を我と謂(い)う」とある<自由>は後者の用法を承けている。」と示されています。
また「ちなみに初期の漢訳仏典では、「諸仏は法に於て最も自在なるを得」〔法華経信解品〕、「不可思議の自在なる神通」〔維摩経法供養品〕などのように、<自由>よりも<自在>の語の方が多く用いられている。<自由>もしくは<自由自在>の語が、煩悩の束縛から離れた解脱の境地を説明する言葉として盛んに用いられるようになるのは、唐宋の禅学文献からである。」
と書かれています。
そのあとに『祖堂集』の用例が出ています。
唐や宋の時代の禅の文献で自由という語がよく用いられるようになったことが分かります。
入矢義高先生の『禅語辞典』には、
「完全な主体性を確立すること、臨済の言葉でいえば、随処に主となること。そのことによって自在無碍であること。現代語の(自由)とは異なる。」
と解説されています。
「自由」について考えると鈴木大拙先生の『東洋的な見方』を思います。
「自由・空・只今」という章があります。
大拙先生は、
「まず自由という文字とその本来の意義について少しく弁じてみたい。
元来自由という文字は東洋思想の特産物で西洋的考え方にはないのである。あっても、それはむしろ偶然性をもっていると言ってよい。
それを西洋思想の潮のごとく輸入せられたとき、フリーダム(freedom)やリバティ(liberty) に対する訳語が見つからないので、そのころの学者たちは、いろいろと古典をさがした末、仏教の語である自由を持って来て、それにあてはめた。それが源となって、今では自由をフリーダムやリバティに該当するものときめてしまった。
西洋のリバティやフリーダムには、自由の義はなくて、消極性をもった束縛または牽制から解放せられるの義だけである。それは否定性をもっていて、東洋的の自由の義と大いに相違する。
自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「自ら」または「自ずから」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく、自ずから出るままの働き、これを自由というのである。」
と書かれています。
何かから解放されて自由になったという消極的な意味ではなく、自らによる、自ずから出るはたらきだというのです。
勝手気ままにすればいいという意味でもないのであります。
大拙先生は「ものがその本来の性分から湧き出るのを自由という」とも述べておられます。
「松は松として、竹は竹として、山は山として、河は河として、その拘束のなきところを、自分が主人となって、働くのであるから、これが自由である。」
とも仰せになっています。
自ら主体性をもって自ずとはたらきだすのが自由だと説かれています。
生死自由とは、生きるも死ぬも自ずから出るままのはたらきだということになります。
横田南嶺