死ぬも生きるも自由とは
死ぬも生きるも自由とはどういうことをいうのでしょうか。
馬祖のお弟子の無業和尚は、死ぬも生きるも自由だった人だと思います。
馬祖禅師のもとで悟った時の話はよく知られています。
堂々たる体格の方だったようで、お声も鐘が響くようだった方です。
馬祖禅師にお目にかかって、馬祖禅師から、立派な仏堂だけれどもその中に仏がいないなと言われます。
体は立派だけれども中に仏がいないぞということです。
そこで、無業禅師は、自分は今まで仏教学について学んでその大事なところを得た思いですが、禅では心がそのまま仏であるということを聞いて、それだけはどうもまだ分かりませんと申し上げました。
その当時馬祖禅師が、即心是仏、心がそのまま仏であると説いていたのでした。
そこで馬祖禅師は、その分からぬという心こそそうだ、そのほかに別に仏があるのではないと答えます。
無業和尚は、では祖師が密かに伝えてきた教えとはいったいどんなものですかと問います。
馬祖禅師は、その分からぬという心がそうだといって気がついてほしかったのですが、無業和尚にはまだ分からないので、いまは忙しいのでまた別の時間に来なさいと言います。
そう言われて無業和尚が、馬祖禅師のお部屋をおいとまして部屋から出ようとします。
すると「大徳」と呼びかけられます。
大徳というのはお坊さんを呼ぶときの敬称であります。
今でいえば、ご住職とか和尚様という具合です。
呼ばれると思わず、フッと振り返ります。
すると馬祖禅師は「これなんぞ」と言いました。
そこでハッと気がつくことができました。
無業和尚はありがたく礼拝しました。
馬祖禅師は、いまごろ礼拝してどうするのかと言いました。
こんな問答です。
問答によって気づかせる例であります。
その無業和尚がお亡くなりになる時のことです。
無業和尚には時の皇帝である憲宗皇帝がなんども宮中にお召しになるのですが、無業和尚は一向に参内しようという気が無く、病気ですといって行きません。
更に穆宗の代になって、穆宗は是非とも無業和尚にお目にかかりたいと思って、僧録という僧侶の取り締まりの為の僧の役人に命じて迎えようとします。
このたびの皇帝の思し召しは各別のもので、どうか皇帝のご意向を受けてください、今度は病気だからと断らないでくださいと頼みます。
無業和尚は、微笑みながら。私に何の徳があって、あなた方役人を煩わせようかと言って行こうとします。
ただ、あなた方は先に行ってください、私は別の道で行きますと伝えます。
そこで無業和尚は、沐浴して身を清め、頭を剃って、夜中に弟子達に告げました。
そのときに弟子達に告げた法語が素晴らしいものです。
そのように教えを伝えておいて、伝え終わると結跏趺坐して亡くなったのでした。
荼毘すると輝く舎利が得られたと書かれています。
世寿は六十二でありました。
このように死のうと思えば、スッと死ぬことができたのです。
末期の法語というのは、「汝等、見開覚知の性は太虚と寿を同じくし、不生不滅なり。一切の境界は本自り空寂にして一法の得べき無し。迷う者は了せず。即ち境の為に惑わさる。一に境の為に惑わさるれば流転して窮まらず。汝等、当に知るべし。心性は本自り之有り。造作に因るに非ず。猶お金剛の如く、破壊すべからず。」という言葉から始まります。
意訳しますと、
「あなたがたが見たり、聞いたり、感じたりしている、その心のはたらきの本性は、実はこの大空と同じほど永遠であり、生まれることも滅びることもない。
お互いの目の前に現れるあらゆる現象は、本来は空であり、自ずから静かで、そこには、これこそ絶対に実体あるものだ、これこそ真理だといってつかむことのできるものは何一つない。
しかし迷っている人は、そのことが分からない。
そこで目の前の現象に振り回されてしまう。
そして一度、外の世界に心を惑わされると、迷いの世界をぐるぐる巡り続け、果てしなく流転して、輪廻を繰り返してしまう。
あなたがたは、よく知りなさい。
心の本性というものは、本来すでに具わっているのであって、修行によって新しく作り出されるものではない。
それは金剛石のように堅固であり、何ものにも壊されることはないのである。」というのです。
素晴らしいお言葉です。
馬祖禅師も「この心は虚空と寿を斉しくして、乃至六道に輪廻して種々の形を受くとも、即ち此の心は未だ曽て生ずること有らず、未だ曽て滅すること有らず」と説かれています。
これは『宗鏡録』にあるという馬祖禅師の言葉です。
禅文化研究所の『景徳伝灯録巻七,八,九』にある註釈に書かれています。
この心は、大宇宙とおなじ年齢であって、たとえ私たちが六道に輪廻して様々な形で生まれ変わろうとも、この心は未だ曽て生じることもなく未だ曽て滅することもないのだというのです。
この心こそが仏なのです。
この心に気がつけば、この肉体の生死などに惑わされることはないのです。
そこで死ぬも生きるも自由になれるのでしょう。
横田南嶺