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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.05.23
今日の言葉

臨済禅師の目指したもの

先日は、『臨済録』に学ぶという講座を行っていました。

私の『臨済録』の講義を聴きたいという、珍しい方がいらっしゃって、その方のご要望にお応えすることにしました。

その前の日曜説教の折に、簡単に告知をしただけでしたが、百名もの方々がお集まりくださって驚いたのでした。

長年この『臨済録』という書物に取り組んできたので、そこで学んだことを少しお伝えしようと思った次第です。

講本は無著道忠禅師が校訂された『臨済録』を用いました。

臨済禅師の思想を学ぶには、なんといっても示衆の部分なので、示衆をはじめから読むことにしました。

『臨済録』の構成では、はじめに上堂があって、そのあとに示衆があって、勘弁と行録と続いています。

上堂がもっとも大事な説法なのですが、これはかなり難しいものです。

まだ示衆の方が親切に書いてくださっていますので、学びやすいと感じるのです。

示衆のはじめは四料簡という、これまた難解な問題が説かれていますので、それは省いて、そのあとから読み始めました。

原文は、

「師乃ち云く、今時、仏法を学する者は、且く真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり。殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自から至る。」

という漢文ではわずか二行ほどを読んだのでした。

これだけでも一時間お話することがあったのです。

「師乃ち云く」の「乃ち」の説明から入りました。

「すなわち」と読む字にはいろいろあります。

即時とか即日という場合の「即」があれば、この「乃」という字を書くこともあります。

即時の「即」には、くっつくというもとの意味があります。

前後の状況が直結する場合に用いるもので、いろんな使い方がありますが、「すぐに」「ただちに」と訳したりします。

それに対して、この「乃ち」は「そこでやっと」「そこではじめて」と訳します。

前節の結果をうけて、あらためて後節の行為や状態がおこるのを示しています。

岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳でも、

「そこで師は言った」と訳されています。

「今時、仏法を学する者は」というところは、「今日、仏法を修行する者は」と訳されています。

『臨済録』には、学人とか学者という言葉がでてきますが、「学者」と書いていても、これは大学で研究しているという、今の学者という意味ではありません。

今は、物事はなんでも細分化してしまい、仏教を学ぶにしても、修行して実践する者と、大学などで文献を研究する者と別れてしまっていますが、もともとはひとつです。

仏教を学ぶには古来「三学」ということが大事にされています。

三学というのは戒定慧を言います。

三学の戒というのは戒をたもつことです。

これはなにも戒の研究をいうのではなく、もちろん戒の内容を学ぶこともありますが、戒をたもつように実践して生きることを言います。

戒定慧の定は禅定です。

これも禅定の研究ではなく、禅定の実践であります。

そして智慧を啓発するのです。

そこで入矢先生は「仏法を学する者は」を「仏法を修行する者は」と訳されているのです。

そのあとに、「且く真正の見解を求めんことを要す」と続きます。

入矢先生は「なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である」と訳されています。

「且く要す」という言葉は『臨済録』でも何度もでています。

しばらく。まあまあという気持ちを示すことばで「とりあえず」という意味です。

まずは正しい見解を得ることだというのです。

この正しい見解というのは、示衆の中で説かれていくのです。

その正しい見解を得ることができたならば、「生死に染まず、去住自由」になるというのです。

入矢先生は「もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。」と訳されています。

生死とは一般には生き死にで、生きることと死ぬことを言います。

仏教では「しょうじ」と読んで、これはサンスクリットの「サムサーラ」の漢訳語であります。

「サムサーラ」は「輪廻」とも訳されます。

「サムサーラ」の訳語には、生死、生死流転、輪転、輪廻などがあります。

「生死」は、生まれかわり死にかわりして輪廻することを言います。

『広辞苑』にも「生と死とを繰り返すこと。迷妄の世界をめぐり続けること。輪廻」と解説されています。

『広辞苑』を調べていると、「生死即涅槃」という言葉もあります。

これは「生死を繰り返す迷いの世界そのものが涅槃の境地であるということ」を表します。

「煩悩即菩提」とも言います。

ここで学ぶのは、生死に対して涅槃といい、煩悩に対して菩提といっていることです。

生死と涅槃、煩悩と菩提は対語であります。

生死は輪廻することですから、その対極にある涅槃というのは、輪廻の世界から脱することを言います。

もともと仏教では輪廻の世界から解脱することを求めたのでした。

涅槃の言語はサンスクリットの「ニルヴァーナ」です。

原語の「ニルヴァーナ」は吹き消すことです。

吹き消した状態を言います。

もともと仏教では、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒の煩悩の火を吹き消し、煩悩を滅することを涅槃と言いました。

しかし、臨済禅師はここで「生死に染まず」と言っていることに注目しました。

生死すなわち輪廻の世界から消えることを言っているのではないのです。

「染まず」というのは、蓮が泥の中で咲いて泥に染まらないというように、その中にあることを言います。

その輪廻、生死の中にあって、それに染まらない生き方を求めているのだと分かります。

そして去住自由というのですから、死ぬも生きるも自在なのだというのです。

自由は自らに由るのですから、自分で決めるのです。

別のところに「生死去住、脱著自由」という言葉が出ています。

これは「衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入する」ことです。

暑いなと思ったら薄着をしますし、寒いなと思ったら重ね着をするのは、各自が自らに由るのです。

臨済禅師が目指しているのは、この輪廻の世界から脱出することではなくて、輪廻の世界にあって、それに染まることなく、生きるも死ぬるも、服を脱いだり着たりするように自由になるということなのだと分かります。

そのようは「至高の境地」は、なにも「得ようとしなくても、向こうからやって来る」と説かれています。

自ずから具わっているということなのです。

 
横田南嶺

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