みやまのさくら
という句があります。
卯の花の咲く頃になるとこの句を思い出します。
この句は河合曽良の作であります。
曽良は松尾芭蕉とともに奥州平泉を訪れた門人であります。
一六四九年の生まれで、一七一〇年に亡くなっています。
芭蕉が一六四四年の生まれで、一六九四年に亡くなっていますので、芭蕉よりも五歳お若いのです。
兼房というのは、十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)のことです。
この人は、『義経記』に出ている人物です。
義経の最期、老齢ながら果敢に戦った武将として描かれています。
この卯の花の句の前には、芭蕉の有名な
夏草や兵どもが夢の跡
の句がございます。
また少し後には、
五月雨の降りのこしてや光堂
の句もあります。
芭蕉と門人の曽良は、藤原一族や義経たちをしのび、「笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」と書かれていますが、時のたつのも忘れて涙を落したのです。
奥州藤原氏は。藤原清衡(きよひら)を初代とし、二代目基衡 (もとひら)、三代目秀衡(ひでひら)を指します。
平安時代の末期、源頼朝と対立し、奥州藤原氏をたよって落ちのびてきた源義経とともに、奥州藤原氏も滅ぼされました。
私が住んでいる建物の裏、卯の花が咲く崖もすっかりと刈り込まれました。
先日以来の崖の伐採であります。
ツツジの咲く崖でありましたが、これも切られてしまいました。
しかし、かつてこの崖に網をかけたおりにもすべて刈ってしまい、そのあとまた生えてきたのですから、また生えてくるかもしれません。
星野立子さんの詠った
見おぼえの山百合けふは風雨かな
という山百合も当分は見られなくなります。
崖が刈り終わると、山上の桜の木が目立つようになりました。
私の住んでいる建物の裏の崖の上に、桜の木があるのでした。
毎年この崖の桜がきれいに咲いてくれるのです。
この桜を眺めるのも毎年の楽しみでありました。
この一撃亭という建物には、修行僧として前管長の足立老師にお仕えして住まわせもらっていました。
二十代の終わり頃から三十代前半でありました。
三十四歳から師家代参として住むようになりました。
崖がすぐ後ろにそびえていて、時に落石があり、昼なお鬱蒼として暗いところでした。
自分の置かれた厳しい境遇と、この薄暗くいつ落石があるかも分からない環境とは一致しているように感じて、三十代はただ堪えてきたのでした。
四十六歳で管長に就任してからもここに住み続けてきました。
ときに崖の草を手の届く範囲で刈り込んだりしてきました。
卯の花を大事にしながら、山百合の咲くところを注意しながらの作業であります。
それが全て刈られてしまって、崖の上の桜を眺めていたのでした。
そしてちょうど職人さんたちが休憩されていたので、「きれいにしていただいて有り難うございます」と御礼を申し上げました。
そしてふと桜を見上げて、「桜はどうしますか、このままですか」とうかがいました。
すると職人さんは、即座に、「桜も切ります」と答えられました。
愕然としたものの、そのような表情はしないようにして、「そうですか」と答えました。
たしかに下から仰いでみると、大きな枝のほとんどが建物の屋根に覆い被さっているのです。
「これは危険ですから」と言われると致し方ありません。
やはり若い修行僧たちをお預かりしているので、安全が第一であります。
しかしながら、この桜が切られるのは見るに忍びないと思っていました。
ちょうど大きな行事があって、一日本山に出ている間に伐採されました。
行事が終わって戻ってみると、桜の木は崖の上になくなっていました。
毎年この桜の咲くのを見るたびに
あれをみよ みやまのさくらさきにけり まごころつくせ人 しらずとも
という和歌を思い出していました。
松原泰道先生に教えてもらった和歌であります。
わたくしが大学を出て修行に出るときに書いてくださった和歌でありました。
これは松原先生が早稲田大学を卒業なさるにあたって、仲間たちと箱根を旅したときに見つけた歌碑に書かれていたものです。
この歌を見つけたときの様子が松原先生の『私の航跡』(龍源寺)に次のように書かれています。
「誰かが、「おい、向こうの山を見ろ」
と声を上げました。見ると、遠くの山に桜がぽつんと咲いています。
「桜にも運のいいのと、悪いのとがあるんだな。
街道に咲いていれば、わずかな人間でも桜を見る人はいるけど、あんな山奥で咲いても誰も見に行けないし、だからといって桜の木がこちらまで出てくるわけにもいかない。不運な桜だな」
誰が言ったかは覚えてないのですが、就職も決まっていない自分たちと山桜とが二重映しになって、そんな感傷的な気分になったのでしょう。
このままでは、あまりセンチメンタルになるから帰ろうじゃないかと、私はもたれていた石の碑から身を起こしました。すると誰かに、
「松原、お前のオーバーの背に苔と泥がついてるぞ。
なにに寄っかかったんだ?」と言われ、あらためてその石を見ると、苔の間から字らしきものが見えます。
どうやら、その石は歌碑のようでした。
そこは文学部の学生たちですから、皆指先でなぞって、次のように読み取ることができました。
あれをみよ みやまのさくらさきにけり まごころつくせ 人しらずとも
この一首は、私たちの心に強く響きました。
山奥の桜のことを、人が見ていないから運が悪いと言ったけれど、こんないい歌があるじゃないか、私たちは、遠くに見える桜に目を見やりました。そして、
「俺たちは卒業してしまうけれども、いくら不景気だからといって、生きるために要領のいい人間になるのだけはやめよう。この歌のように、人が見ていなくても誠実に生きようじゃないか」
と、語り合ったものです。」
と書かれています。
そんな和歌を思い起こしていた桜もなくなりました。
しかし、またこれから新しい草木が生えてくると思います。
新たな一歩が始まるのであります。
横田南嶺