礼拝の意味を考える
午後からは布薩の会であります。
布薩のすすめも、これで二十八回目となります。
六十数名の方がご参加くださっています。
これだけ大勢の方と一緒になって礼拝行をできるのは、とても有り難いことであります。
はじめに、前回いただいた質問で、「不邪見」についてお話させてもらいました。
十善戒の第十不邪見についての現代語訳は「すべては変化する理を知り心を正しくととのえん」となっています。
質問された方は、文字自体や言葉自体を調べられたそうですが、「誤った考え方をするな」といった内容ばかりで、「すべては変化する理を知る」という訳はなかなかないというのです。
そこで釈宗演老師のお言葉なのか、私が考えた言葉なのかという質問です。
その方はこの「すべては変化することわりを知る」という訳は素晴らしいと思っているというのです。
そこでどのような解釈によっているのかと聞かれたのでした。
この訳文は、臨済寺僧堂師家の阿部宗徹老師からご教示いただいたものです。
この世の中は、無常であるのに、変わることがないと思うのは邪見です。
自分一人では生きられない、ものはそれひとつだけでは成り立たないのに、そうではないと思っているのが邪見です。
不邪見というのはそのような邪見を離れるのです。
仏教の一番基本が「諸行無常、諸法無我」でありますので、すべては変化することわりを知るというのは、実に素晴らしい訳文なのです。
そんな話をしてから、いつものように身体をほぐすことから始めました。
指先から指、手首へとほぐしていきました。
指と手首、それだけでも上半身がかなりゆるむものです。
それから股関節の引き込みを何度も行いました。
これを入念に行っておきました。
そして足の指を回すことや足首まわし、足の指を動かす運動をしました。
その上で、初めての方の為に五体投地を説明しました。
今回は、新しく修行道場に入った修行僧もいますので、丁寧に教えました。
そして実際に布薩を皆さんと行いました。
二十七回の礼拝を呼吸に合わせてゆっくり丁寧に行いました。
そして十善戒などの現代語訳を唱えてゆきます。
終わると、自分自身がとても楽になって調っていました。
いつもながら、こうしてみんなで行うことには各別のあじわいがあるものです。
終わった後に質問を受けました。
初めて参加されたという方から、こうして二十七回も五体投地の礼拝をする「意味」は何でしょうかというのです。
これには一瞬驚きました。
「意味」、実のところ考えたことがないのです。
私たちの修行は、意味を教えてくれたりはしません。
「ただやる」という世界です。
意味は後から分かってくるという感じがします。
礼拝の意味についても正直何も考えずに礼拝を続けてきました。
そこで、とっさに、意味を考えたことがないのですと正直に申し上げました。
何かを食べるにしても、これを食べることにどんな意味があるのか、考える人もいらっしゃるかもしれませんが、なにも考えずにムシャムシャ食べると、どの食材が身体にいいとか、それなりの意味が出来てきたりします。
礼拝も、この頃になっていろいろとその深い意味を感じるようになりました。
身体的な意味について説明をしました。
やはり身体を動かすことが大事なのであります。
人間の身体というのは動くように出来ています。
ところが、坐禅のような修行はじっとしている時間が長いので、不自然であります。
そこで身心を調えるためにも坐禅の合間に経行をして歩いたり、礼拝の行などもあるのだと思います。
今の時代は、多くの方が、イスに坐ってデスクワークをします。
坐禅と同じとは言えませんが、坐って動かないという点では似ています。
身体を動かさないと、いろんな不調が現れてきます。
礼拝行は、まず立ったり坐ったりを繰り返します。
これは下半身を動かす、とてもよい運動になります。
それに股関節から身体を曲げることも、いいのです。
股関節のまわりにはいろんな神経が通っていますので、これを折り曲げたり伸ばしたりを繰り返すことは血行もよくなります。
足腰の鍛錬には一番であります。
イスに坐って礼拝される方もいらっしゃるのですが、イスから立ち上がってイスに坐るを繰り返すだけでもとても身体にいいものです。
そして大地に身体を伏せます。
これで背中が伸びます。
背中というのも坐っていると緊張しています。
この背中の緊張がとれるのもとても身体にいいものです。
五体投地して身体を大地に委ねて水平になるのと、そこから足腰を使って立ち上がるのは垂直の運動です。
水平と垂直、これを同時に行っているのが坐禅です。
坐禅は水平な大地に身を委ねて、腰から背骨を垂直に立てる営みです。
それを礼拝では丁寧に実践するのです。
それによって身心がとても調います。
そんな説明をしました。
時間の都合上、そのような身体的な説明だけに終わったのでした。
しかし心の上でも大きな意味があります。
礼拝は頭を下げることであり、身を低くすることです。
それによって自然に「自我」をゆるめていけます。
人は知らず知らずのうちに、「自分が正しい」「自分が中心だ」という思いにとらわれています。
この「我」が強くなると、苦しみもまた強くなります。
礼拝の第一の意味は、自己中心の心をやわらげることにもあります。
まさにそれでこそ、すべては変化することわりを知ることもでき、心を正しく調えることもできるのです。
礼拝はとても大きな素晴らしい意味があります。
よいご質問をいただいて自分自身改めて礼拝の意味を見直すことができました。
そして大勢皆で行うことにも大きな意味があります。
横田南嶺