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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.04.19
今日の言葉

振るい落とそうにも、振るい落とせぬもの

日曜説教の次の日は、東京湯島の麟祥院に行って、勉強会に出ていました。

こちらは、これでもう十一年になります。

もともと小川隆先生に臨済録を学ぶという会でありました。

今は、小川先生に大慧禅師の『宗門武庫』を講義して貰っています。

そのあと私が『臨済録』の一節を読んでいるのです。

小川先生の講義は、いつもながら該博な知識で、綿密に解説してくださいます。

今回は、円覚寺の修行僧でも新しく入って初めて聞く者もいることをお伝えしていたので、更に丁寧にお話くださいました。

『宗門武庫』で今回学ぶ話は、それほど複雑な話ではありません。

真浄克文禅師と劉宜翁との問答であります。

劉宜翁という方は、文人でもと仏印禅師に参じていました。

雲門宗の禅師でありました。

北宋の時代を代表するのが雲門宗でありました。

蘇東坡もこの仏印禅師に参じていました。

仏印禅師に参じて自負心が強くて、真浄禅師のことを軽んじていました。

その劉宜翁が真浄禅師のもとを訪ねます。

大勢の人が集まって説法をされる法堂でお目にかかります。

皆の前で、真浄禅師に向かって、「長老は、芝居の台本を書いて何年ほどになりますか」と問います。

これはずいぶん失礼な問いかけであります。

禅問答を芝居に譬えているのです。

禅問答を芝居に譬えることは、ほかにも用例があるようです。

どれほど禅問答を繰り返してこられたか、その手並みを拝見したいといわんばかりです。

真浄禅師は、「芝居の台本は書き上がっていて、その演じ手を待つだけだ」と答えます。

劉宜翁は「私はそんな一座に加わるつもりはありません」と言います。

真浄禅師に「いやすでにこの舞台に上がっていますぞ」と言われて、劉宜翁は答えに窮します。

そこで真浄禅師は、パンと手を打ちます。

そして「ガマガエル禅、ピョンと一跳ねが関の山か」と言いました。

さすがの劉宜翁も、真浄禅師にやり込められてしまいました。

またある日のこと、坐っておられる真浄禅師の法衣を、劉宜翁が指さしました。

「これをなんと言いますか」と問います。

禅衣だと答えると、ではその禅とは何ですかと問いました。

真浄禅師は、サッと衣を振るって言いました。

原文は「抖擻不下」となっていますが、小川先生は、「振るい落とそうにも、振るい落とせぬものである」と訳されました。

劉宜翁は、一言もありません。

そこで真浄禅師はバシリと打ちすえて「これしきの腕前で、このわしを試そうと申すか !」と言ったという問答であります。

小川先生の註釈には、「「抖擻不下」は、我が禅はこの身と一つのものだということであろうが、そこには、おそらく、外から付けたりはずしたりする装飾品のような貴公の禅とはわけが違う、という含みがある」と解説されています。

「抖擻」という言葉は、一般には「トウソウ」と読んで、

「振り払う。」や「僧・世捨て人のこと」という意味があります。

「衣・食・住などこの世のわずらいを払い落とす意から」そう言われています。

「抖擻」という言葉は、仏教では「頭陀」の訳語としても使われています。

『広辞苑』で「頭陀」を調べてみても、
「(梵語dhūta 抖擻(とそう)と訳す。はらいのけること)」という意味が書かれています。

それから

①衣食住を制限し煩悩をなくす修行。12種あり、十二頭陀行という。

②僧が行く先々で食を乞い露宿などして仏道を修行すること。また、その僧。

という意味が書かれています。

小川先生は、「士大夫の参禅が、往々、文芸遊戲化していた風潮への憤りと批判の意が込められているようである」と指摘されていました。

真浄禅師の批判は、この劉宜翁だけではなく、仏印禅師にも向けられているかもしれないというのです。

「仏印については、引っ越しの際の荷物のあまりの多さを恵洪が揶揄した記述があり( 『冷齋夜話』巻10)、」というのです。

荷物の多さというと、『宗門武庫』でも、修顒禅師の話がありました。

富鄭公と司馬温光とが、修顒禅師を洛陽招提寺にお招きしようとして、郊外で出迎えていました。

そこにたくさんの荷物を運ぶ人足が通りすぎます。

なんの荷物かと問うと、今度お見えになる修顒禅師のだと聞いて、司馬温光は、お出迎えせずにサッサと帰ってしまったという話でした。

この修顒禅師も雲門宗の方でありました。

雲門宗の貴族化の例だというのです。

士大夫の参禅がなかば遊戯化していたのではないかと言われます。

最後に示された大慧禅師と湛堂禅師との問答が印象に残りました。

湛堂禅師は大慧禅師に、私の所の禅をあなたはすでにものにした、禅を説けといったら見事に説くし、公案の拈提や説法をさせるとそれも見事にやれる、しかし、ただ一つのことはまだ駄目だというのです。

それは何ですかという大慧禅師に湛堂禅師は、まず「カ」と言います。

意味に限定できない一声です。

そしてあなたは方丈で禅を説くときには、禅は確かにある、しかし方丈を出ていくと禅はもうない、はっきり目覚めているときには禅はあるが、寝入ったとたんに禅はなくなってしまうと言ったのでした。

これこそが、「振るい落とそうにも、振るい落とせぬもの」、そのものでありましょう。

後天的に習い覚えて習得することも大事であります。

しかし鋳掛けではありませんが、メッキは剥がれます。

その人が本来持って生まれていて、どこで何をしていようが、離れようにも離れないもの、それこそを臨済禅師は無位の真人と説かれたのだと思います。

習い憶えて後天的に身につけるのは、それぞれ「位」にしか過ぎません。

それらに限定されることのない、本来もってうまれた素晴らしさ、真人、それに目覚めて生き生き生きるのが禅であります。

それを自覚するためにも禅の修行は、ひたすら習い憶えたこと、後生大事に抱えているものを振り払い、振り落とすことを繰り返します。

そうして「振るい落とそうにも、振るい落とせぬもの」に気づかせるのです。

禅は飾りになっていないか、修行も飾りになっていないか、大いに反省させられます。

 
横田南嶺

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