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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.01.10
今日の言葉

吉祥と黒闇

吉祥は「きっしょう」とも、「きちじょう」とも両方の読み方があります。

毎年新年の言葉を管長が揮毫する習慣になっており、だいだい目出度い言葉を書くのですが、今年は吉祥と書きました。

吉祥は、「めでたいきざし。よい前兆」という意味であります。

今年は巳年ですので、巳は脱皮を繰り返すことから、新たな自分に生まれ変わるといいます。

そこで復活と再生の時だとも言われます。

能登の復興も祈念して「吉祥」と書いたのであります。

吉祥の「吉」という字は、元来壺をいっぱいにしてふたをした姿を描いたものだそうです。

そこから、内容の充実したことを言います。

反対に、空虚なのを凶というそうです。

良寛さんに「鉢の子に 明日の米あり 夕涼み」という句がありますが、食べるものが一杯あるというのは幸せであります。

食べるものの不安がないことが吉だとも言えます。

吉祥の「祥」という字は「さいわい。めでたい姿、めでたいしるしのあらわれ。」を意味します。

また「きざし。吉凶にかかわらず、神の意向や今後の運勢があらわれたもの。」としても使われます。

もともと字の意味は、しめすへんに羊を書きますので、まず「羊」は、古人が家畜として常用し、その姿のよいものを犠牲としたので、よい形の代表とみなされた。」のであります。

羊が大きいと書いて「美しい」という字となります。

形のよい大きな羊が「美」なのです。

吉祥の「祥」は「示(まつり)+(音符)羊」で、「神意がある姿や形をとって外にあらわれたもの。」という意味であります。

私たちが祈祷をする言葉にも「諸縁吉祥ならんことを」という語があります。

「吉祥天」という神様もいらっしゃいます。

『広辞苑』には、

「インド神話で、ヴィシュヌ神の妃。

仏教に入って毘沙門天の妃とされる。

衆生に福徳を与えるという。

その像は容貌端麗、天衣・宝冠をつけ、手に如意宝珠を捧げる。

吉祥悔過の本尊。功徳天。吉祥天女」
と書かれています。

岩波書店の『仏教辞典』にも同じように書かれています。

参照しますと「幸福をもたらす女神。インドのヒンドゥー教神話によく知られた美と繁栄の女神ラクシュミー(別名シュリーまたはシュリー‐ラクシュミー)が仏教に取り入れられたもの。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされるが、仏教では毘沙門天(びしゃもんてん)の妃となった。」

ということです。

『涅槃経』には吉祥天と黒闇天の話が出ています。

これはよく布教の法話などに使われる話であります。

ある家に、女性が訪ねてきました。

それは実に美しい方です。

どなたですかと聞くと吉祥天だと言います。

『涅槃経』には「功徳大天」と書かれています。

そして、その女性は、私は行く先々に財宝を与えるのですと言いました。

福の神であると言えます。

家の主は喜んで招き入れます。

しばらくするとまた女性が来ました。

どなたですかと聞くと「黒闇」だと言います。

黒闇天であります。

『涅槃経』には「黒闇」と書かれています。

そして自分の行く家では、その財産はみななくなってしまうというのです。

福の神ではなく、こちらは貧乏神であります。

これを聞いて主人は、追い返してしまいます。

すると黒闇天は「先ほどのあなたの家に入ったのは私の姉です。私が去ると姉も一緒にここを立ち去ることになります」と言いました。

主人は姉も妹も追い出してしまったという話であります。

「黒闇天」は、『広辞苑』では、

「容貌醜悪で人に災禍を与える女神。吉祥天の妹で、密教では閻魔王の妃とする。胎蔵界曼荼羅の外金剛部院に配され、肉色で人頭杖を持つ姿に表される。黒闇女。黒闇天女。黒夜神。」と解説されています。

不吉・災いの女神です。

福の神と貧乏神が常に一緒だというのは興味深い話であります。

坂村真民先生の「幸せの帽子」という詩を思います。

幸せの帽子

すべての人が幸せを求めている
しかし幸せというものは
そうやすやすと
やってくるものではない
時には不幸という帽子をかぶって
やってくる
だからみんな逃げてしまうが
実はそれが幸せの正体だったりするのだ
わたしも小さい時から
不幸の帽子を
いくつもかぶせられたが
今から思えばそれがみんな
ありがたい幸せの帽子であった
それゆえ神仏のなさることを
決して怨んだりしてはならぬ

という詩であります。

前管長の足立大進老師からいただいた言葉も思い起こします。

苦しい時は 
今幸せの種を 
蒔いていると思うがよい
その種はやがて芽を出す
たとえすぐ稔らなくても
私の人生これで良かった
そんな思いを残してくれる

という言葉です。

禍福は糾える縄の若しとはよく言う言葉です。

これは『史記(南越伝』にある「禍に因りて福と為す、成敗の転ずるは、譬うれば糾える纆の若し」という言葉がもとになっています。

幸せばかりということもなければ、不幸ばかりということもないのが人生であります。

いつも使っている仏教伝道協会日めくりカレンダーに

頑張って努力しても
なかなか結果が出ないときは
定期預金をしていると思えばいい  業力不滅

という言葉もありました。

禍福ともにご縁と受け止めることであります。

「ご縁なり いつも 笑顔でおかげさま」と足立老師はよく仰せになっていました。

しみじみとその言葉をかみしめます。

 
横田南嶺

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