べらぼう
どの老師も皆天龍寺で修行なされた老師であります。
天龍寺からはすぐれた人材が多く出られています。
平田精耕老師のもとからも、今の天龍寺の管長である佐々木容堂老師、広島の仏通寺の管長をおつとめになっていた對本宗訓老師、そしてただいま方広寺の管長をなさっておられる安永祖堂老師というように、錚々たるお方がいらっしゃいます。
そしてまた平田老師のもとで修行された方に、作家としてもご活躍の玄侑宗久先生もいらっしゃいます。
年末に、玄侑先生の『禅道場のベラボーな生活』という本を、出版社から送っていただきました。
この本は二〇〇九年に朝日新聞出版から出された『ベラボーな生活 禅道場の「非常識」な日々』という本を加筆修正し、題を改めてケイオス出版からだされたものであります。
もとの本も拝読したことがありましたので、懐かしく思って手に取って開いています。
昭和の時代の懐かしい僧堂の風景が軽妙な筆致で描かれています。
こういう本の題を拝見すると、「ベラボー」という言葉が印象に残ります。
本をひらくと、「はじめに」にも、「ベラボー」の語源はいろいろ云われるらしいが、ここでの意味は単純に「非常識」とでも受け止めていただきたい」と書かれています。
修行道場の話というのは一般の方にはとても興味のあるもののようであります。
ただ私は個人的にはあまり修行道場の話をあれこれとすることにはためらいがあります。
最低限のことにとどめるようにしていますので、ここに玄侑先生がお書きになっているような「ベラボー」な話をすることもほとんどありません。
やはり修行のことは人さまに語ったり、見せたりするものではないと思うからでもあります。
舞台裏や楽屋の話は、あくまでも表に出さない方がよいと思います。
すこし漏れ聞こえるくらいでいいと思っていますので、はじめてこの本が出版されたときには正直違和感を覚えたものです。
しかし、あれから十数年の間に修行道場の世界も大きく変わりました。
私自身は、ずっとその修行道場の中にいるのですが、その変化の大きさには驚きを隠せません。
かくまで変わるとは予測もできませんでした。
このたびの出版に際して玄侑先生が書かれた「復刻版のためのあとがき」にも「時代の変化に伴い、昭和末期の私の道場体験も。記録に残すべき価値が出てきたように思えたからである」と書かれている通りなのであります。
かつては「秘すれば花」と思っていた修行道場の世界も、もはや絶滅危惧に近い状態にあり、秘していたものをきちんと残し伝えておかないといけないように変わったのであります。
「復刻版のためのあとがき」には、現代の修行道場のさまざまな問題に触れながら、最後には、
「しかも現在の禅道場はその成員が激減している。少子化による寺院子弟の減少もあるが、我々の頃は約半数いた在家出身者もあまり見かけない。
僧侶という職業に就く目的ではなく、純粋に道場での体験がしたい、体験のなかで禅を学びたいという人々が極端に減ってしまった。」
と書かれています。
これは実に大問題であります。
修行道場で修行する者がこれほどまでに減少してしまうとは思いもしなかったのであります。
やはり時代の変遷で「ベラボー」な暮らしなど見向きもされなくなったのでありましょうか。
私は大学を出てからずっと四十年ちかく修行道場で暮らして「ベラボー」にはすっかり慣れてしまい、「ベラボー」を「ベラボー」とも思わないのですが、もはや時代に取り残された骨董品になってしまっています。
骨董品ならまだいくらかの価値があるでしょうが、見向きのされずに捨てられそうなのです。
ちなみに「ベラボー」はどういう意味か『広辞苑』で調べると、
「便乱坊・可坊
①寛文(1661~1673)年間に見世物に出た、全身まっくろで頭がとがり目は赤く丸く、あごは猿のような姿の人間。この見世物から「ばか」「たわけ」の意になったという。
②人をののしりあざける時に言う語。ばか。たわけ。あほう。
③(「篦棒」の字を当てる)異常なさま。はなはだしくて、信じがたいさま。」
という解説が書かれています。
玄侑先生は更に
「冒頭に私がこの本について、「記録に残すべき価値」と申し上げたのは、この時代の道場の大きな変化を想ってのことだ。
芭蕉の「不易流行」じゃないが、禅道場もその本質を守るため、いま必死に変革中なのだ。
道場を預かるお師家さんたちは本当に大変だろうと思う。」
と書いてくださっています。
「その本質を守るため、いま必死に変革中なのだ」というのは、まさにこの言葉通りなのです。
それだけにこちらも禅の本質は何かを真剣に考え直しています。
なにを変えていいのか、何が大事なのかを絶えず問い続けながら試行錯誤しています。
人がいなければ道場としては成り立ちませんので、まず今の若者にもいられる環境にするよう努力しています。
「ベラボー」なまま、ただ堪えろというわけにはゆかなくなっています。
十数年前には違和感を懐いていた本が、このたびの出版には大きな意味があると感じています。
そして私自身かつて馴染んでいた「ベラボー」な暮らしがもはや懐かしくなっているのであります。
横田南嶺