六方を礼拝する
修行道場では、本日鏡開きであります。
一般に鏡開きは、一一日が多いようです。
『広辞苑』にも鏡開きは、「正月十一日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。
近世、武家で、正月に男は具足餅を、女は鏡台に供えた餅を正月二十日(のち十一日)に割って食べたのに始まる。鏡割り。」
と解説されています。
修行道場では、正月三が日で大般若の祈祷をして、四日から六日までその祈祷したお札を信者さんのお宅に配って年始の挨拶にまわります。
それが終わって七日から平常の修行に戻ってゆきます。
それで、六日の夕方に鏡餅や松飾りを片付けて、晩に鏡開きをしています。
鏡餅を割ってぜんざいにして皆でいただくのです。
そのときには、くじ引きで景品が当たるようにしています。
かつては、老師の色紙が一等賞でありましたが、私はそのように競うのが好きではありませんので、皆さんの分の色紙を書いてあげています。
禅林句集にある言葉や論語にある言葉などを毎年書いてあげています。
六日の六という数字にちなんだ仏教の言葉はたくさんあります。
六道輪廻や六波羅蜜はよく知られています。
六神通というのもあります。
六神通とは、岩波書店の『仏教辞典』によれば、
「<六通(ろくつう)>ともいう。
人知を超えた次の六種の自由自在な能力。
<神足通(じんそくつう)>は以下の五つの神通に含まれないさまざまな超能力の総称。
たとえば飛行・変身。
<天眼通>は衆生の転生の状態を知る能力。
または、あらゆるものを見通す能力。
<天耳通>はあらゆる音を聴く能力。
<他心通>は他人の考えていることを知る能力。
<宿命通>は過去世の生存の状態を思い出す能力。
<漏尽通>は自己の煩悩が尽きたことを知る能力。」
であります。
六で思い出すのは「六方礼経」のことであります。
昨年の年末最後の龍雲寺さまのオンライン坐禅会で、細川晋輔さんがお話くださっていました。
増谷文雄先生の『仏教百話』を読んでくださっています。
十二月二十九日は『仏教百話』の第八十九話で「東方を父母と思うべしー六方礼拝」の章でありました。
六方礼拝の六方とは、四方すなわち東西南北と天地をいいます。
また「歌舞伎で俳優が花道から揚幕に入る時、手を大きく振り高く足踏みして歩く誇張した演技」のことを「六方」といいます。
六方を踏むというときがあります。
『六方礼経』というお経があります。
これは『広辞苑』にも解説されています。
「在家の倫理を平易に説いた仏教経典。
後漢の安世高訳。1巻。
六方を礼拝する意義を、父母・師・妻子・友人・バラモン(修行者)・使用人の六つの人間関係に配当し、人倫の理想を説く。」
と解説されています。
『仏教辞典』には、詳しく書かれています。
「二世紀中頃の安世高訳<仏説尸迦羅越(ぶつせつしからおつ)六方礼経>の略。
釈尊が尸迦羅越(シンガーラ)に在家者の倫理について説いたもので、世俗倫理についての教えが体系化されて説かれている。
パーリ語で書かれた『シンガーラへの教え』と題する経典に相当するもので、種々の人間関係において守るべき徳目が具体的に述べられている。
実生活の指針を述べたものとされている。」
と解説されています。
そして「東を父母に、西を妻子に、南を師に、北を友人に当て、上方は修行者・バラモン(婆羅門(ばらもん))に、下方は使用人に配当して、それぞれの人間関係においての礼節を説く。」というのであります。
『仏教百話』によれば、
「仏陀は、精舎からラージャガハにいたる托鉢の道すがら、シンガーラカという若者をみかけて、彼を教化した。
その説法の内容は、「六方礼拝の教え」として知られている。
シンガーラカは長者の子であったが、彼の父は、死にのぞんでその子に遺言して毎朝、身をきよめ、四方と上下の六方を礼拝せよと命じた。シンガーラカは、父の遺訓をよく守って、六方の礼拝を一日として欠くことがなかった。
仏陀が見かけたのは、そのような彼の早朝の礼拝のすがたであった。
「おお、若者よ、なんじの礼拝の姿は、わたしの心をうつ。
だが、いったい、なんじは、どのような意味で、この早朝の礼拝をいとなんでいるか。」
長者の子は、それが父の遺言であるから、遺言のままに、このことを欠かさず実行している旨を答えた。
いうなれば、彼はただ形式としてこのことを勤めているのであった。
そのとき、仏陀が彼のために語ったことは、その形式に内容を与えるものであった。」
というのであります。
そこで「東方を礼拝しては父母を拝すると思うがよい」
「南方を礼拝しては師を拝すると思うがよい。」
「西方を礼拝しては妻を拝すると思うがよい。」
「北方を礼拝しては親族を拝すると思うがよい。」
「下方を礼拝しては使用人を拝すると思うがよい。」
「上方を礼拝しては聖者を拝すると思うがよい。」
という教えであります。
そこで「長者の子は、この教えを聞いて、ただちに、仏陀の在俗の信者となった。
彼は、そののちも、あいかわらず熱心に早朝の六方礼拝をつづけた。
だが、その形式はいまや、まったく新しい内容をもって満たされていた。」
と説かれています。
ただ無心に礼拝するのも尊い姿ですが、そこに気持ちがこもるとなお一層よいものとなります。
そしてその人の人生を豊かにしてくれます。
敬うもの、拝むものをもつ暮らしはいいものです。
横田南嶺