日曜の楽しみ
日曜日であります。
今年初めての日曜日です。
日曜日というとお休みの方も多いかと思います。
また日曜日が忙しいという方もいらっしゃると思います。
私なども日曜が忙しいという方であります。
日曜が休みという感覚は全くないのであります。
ではいつ休みなのかというと、私に限りますと休みという感覚はありません。
ですから、たまにお休みの日は何をしていますかと聞かれることがあるのですが、お休みの日というのはないのです。
それは修行に休みがないのと同じなのです。
私にとっては、なんでも修行だと思って勤めています。
修行に休みはありません。
もっとも修行道場では、月に二回か三回、外出していいという日があります。
日用品を買ったりするために外出が許可されるのであります。
私の場合、私用で外出するということはありません。
出かけるのは、すべてお寺の仕事であります。
その出かけた次いでに、薬局に立ち寄るくらいのことであります。
講演や法話などで出かけた次いでに、近くの神社仏閣にお参りするのが、楽しみといえば楽しみであります。
しかし、この頃は予定が立て込んでしまい、先だっての山口の講演のように、山口まで出かけても講演だけして、そのままどこにも寄らずに帰って来るようなことが多くなりました。
山口まで行けば、萩の町など見たいところもたくさんあるのですが、致し方のないことであります。
それでもお仕事があるのは幸いであります。
法話、講演、執筆、来客の応接、イス坐禅、布薩の会、どれも自分にとっては修行なのであります。
生きている限りは修行、これがこの道に入った者の務めであります。
また修行というと、ただ歯を食いしばって堪えるだけと思われるかもしれません。
たしかにそんな時期も長かったのですが、この頃は楽しく修行させてもらっています。
そんな暮らしでも日曜の楽しみというのがあります。
一つはまず毎日新聞の日曜くらぶに連載されている海原純子先生の「新・心のサプリ」を読むことです。
前回の心のサプリでは、「日常のなかの旅」という題で書かれています。
海原先生が、ジムのインストラクターから、「年末は旅行とか行くんですか」と聞かれ、ずっと家にいると答えたという話から始まります。
「若いころは円も強かったし年末年始の海外旅行にも行きやすかった。旅は日常生活から離れて自分を客観的に見つめる時間になる。」と書かれているように、かつては旅もよくなさっていたそうなのです。
それが行かなくなったというのは、海原先生は「普段の生活の中で旅をするような感覚が生まれたせいかもしれない。」と書かれています。
そしてそれはどういうことかと言えば「私が考えているのは、年末年始に旅に行かずに家の中で旅に出ることだ。」というのです。
普段は忙しくて出来ないことに没頭することだそうです。
たとえば「ジャズのコードをゆっくり復習しようという計画」や「時間がなくて読めない本を読む計画」などをあげておられます。
それにしてもやはり年末年始は休暇で、遠くにでかけずとも家にいても旅をすることができるという内容でありました。
私などはでかけませんが、年末年始は、いつもよりは忙しいのであります。
たしかに年末年始はどこにもでかけることはありません。
しかし、年末は餅つきから始まってお正月には大勢のお客様がお見えになるので、そのための掃除や準備に追われます。
年賀用の色紙は例年四〇〇枚ほど揮毫します。
その色紙を書くのは、早めに行っておけばいいので、この頃は早くから書いています。
年末にはできあがっているのです。
大晦日の夜は除夜の鐘をついて、ほんの少し仮眠して二時半から修行道場の朝のお勤めが始まります。
それが終わると、午前五時から佛殿で歳旦の法要を務めます。
その後舎利殿でお経をあげて、開山堂に大般若を転読して、更に大方丈に移って大般若転読をして祈祷します。
終わって帰ると、すぐに新年のお客様がお見えになります。
一日来客のお相手をしています。
二日も朝大般若の法要を務めて、あとは八時頃からずっとお客様の応接をしているのです。
三ヶ日はそのようにして過ごしています。
布団に入って睡眠する以外に休むということはないのであります。
時間が空いていれば、手紙などの返事を書いたり、頼まれた原稿を書いたり、ゲラの校正をしたりというのが日常であります。
また海原先生の「新・心のサプリ」では、十二月十五日に「賢者の贈り物」について書かれています。
こんな話なのであります。
夫婦がお互いにクリスマスの贈り物をする話です。
「夫は祖父の代から受け継いだ金の懐中時計を持ち、妻は長い美しい髪をもっていた。
夫は妻が欲しがっていたべっ甲のくしを買うために懐中時計を質屋に入れ、妻は夫の懐中時計につけるプラチナの鎖を買うために髪を切り、業者に売ってしまうのだ。」という話なのです。
夫にしてみればせっかく妻の長い髪の為にべっ甲の櫛を買ったのに、役に立たなくなりました。
妻にしてみてもせっかく夫のために懐中時計につける鎖を買ったのに、懐中時計を質屋に入れてしまってはどうしようもありません。
海原先生は「結局贈り物は使えなくなってしまったが、お互いは思いやりを贈ったことになり、皮肉な結果ではあるけれど読んだあとにあたたかい気持ちの余韻が残ったのを覚えている。」
と書かれています。
そうなのです、お互いが相手の為に自分の大事なものを手放してもプレゼントしたいという心をお互いに喜びあったのです。
そのあとに、海原先生は「ところが、最近全く別の意見を聞いて驚いた。「使えない贈り物を贈るのは無駄。賢者の贈り物ではなく、これは愚者の贈り物でしょう」というものだ。」と書かれています。
私もこの文章を読んでそういう見方もあるのかと思いました。
またかつてコミュニケーションを学ぶ講座で、講師の方がこの賢者の贈り物の話を用いて、一言相手に伝えておけばこんな悲劇は起きなかったと話をされていたのを思い起こしました。
たしかに夫は妻に一言、今度その美しい髪に似合うべっ甲の櫛をあげるよと伝えていれば、妻にしてみれば、夫にその素晴らしい懐中時計に似合う鎖をプレゼントすると伝えていればこんなことにはならなかったということでしょう。
要は受け取りようによって同じ話でも全然違ってしまうのです。
休みがないというのをたいへんだと受け止めるか、有り難い修行をさせてもらっていると受け止めるかで大きく違います。
日曜に日曜の楽しみがあると思って「新・心のサプリ」を読んで、それから野沢龍雲寺チャンネルでオンライン坐禅会があり、いつも細川晋輔さんが、増谷文雄先生の『仏教百話』の話をしてくださっているのを拝聴するのが楽しみなのであります。
わずかな隙間の時間にも楽しみはあるものです。
仏教や禅を学んだおかげで、毎日の暮らしを楽しんで感謝するすることが身についているのであります。
横田南嶺