舎利をおまつりする
円覚寺では、舎利講式という伝統の行事が行われています。
年に一度舎利殿にお祀りしてある仏舎利を、大方丈に移して、そこで仏舎利のご開帳をして、舎利講式という法要を営むのであります。
そもそも「舎利」とは何か、『広辞苑』には、
「①仏陀または聖者の遺骨。塔に納めて供養し、広く信仰の対象とされた。仏舎利。
②死骸を火葬にした後に残った骨。
③俗に、米つぶ。また、米飯。」
という三つの意味が書かれています。
舎利をお祀りするという舎利は、一番の仏陀の遺骨の意味であります。
『広辞苑』には「舎利講会」という言葉も載っていて、これは
「仏舎利を供養する法会。現実には仏舎利の代りに金や銀の枝を用いる」と書かれています。
「舎利殿」とは「仏舎利を奉安する堂宇。内部に舎利塔を安置」していると解説があります。
円覚寺の舎利殿は国宝であり、禅宗様式の代表として高く評価されていますが、舎利をお祀りするお堂なのです。
舎利について、岩波書店の『仏教辞典』で精しく調べてみましょう。
「舎利」は梵語シャリーラの音をあてた言葉です。
「一般に、骨組・構成要素・身体を意味する。
これが複数形となると、遺骨(いこつ)、特に仏・聖者の<遺骨>の意味で用いられることがある。
その意味での舎利を崇拝・供養することが、舎利塔を建立するなどの形で、古来アジア諸国で広く行われているが、実際は、舎利を象徴する水晶など他のもので代用されることが多い。
中国でも、舎利供養の功徳が重視され、祈願すると五色に輝く舎利が得られたのでこれを祀ったといった記述が六朝初期から見られるほか、高僧を荼毘に付したところ舎利が得られたので塔を立てて祀ったとする例や、生前の高僧の目から舎利がこぼれ落ちたなどとする話が多い。
特に得道の禅師を仏と同一視する禅宗では、舎利に関する奇蹟が歓迎された。」
と解説されています。
「舎利信仰」について『仏教辞典』から学んでみましょう。
「ゴータマ‐ブッダの入滅後、遺体は火葬に付され、その遺骨を収めた仏塔が建立された。
古代インド仏教において仏塔は、単に死去したブッダの墓標にとどまらず、無余涅槃に入ったブッダの現れとして積極的な意味を持ち、出家・在家を問わず崇拝の対象となっていた。
三宝のうち仏宝とは実質的には仏塔を指す場合が少なくなく、仏教徒はそこに入滅後のブッダの実在を認めていたことが、経典や律などの文献資料と、碑文や遺跡などの考古学的資料の双方から確かめられる。」
と解説されています。
お釈迦様のお骨をお祀りする仏塔は、仏様を拝むのと同じ信仰を生み出していったのです。
仏陀亡き後は、仏舎利、仏塔を拝むことが仏様を拝むことと同等になったのです。
中国では、
「舎利の讃仰崇敬を物語る逸話は、呉の建初寺建立の契機となった康僧会の舎利感応」と書かれています。
康僧会は,赤烏十年(247年)に呉国の建業(南京)に至り、呉主の孫権や孫晧を仏教に帰依させて、江南で最初の寺院である建初寺を建立し、後の江南仏教発展の基礎を築いた僧侶であります。
呉の孫権が僧会に面会し、仏舎利が出現すれば寺院を建ててあげようと約束しました。
僧会は、七日間祈っても舎利は現れず、二週間祈ってもだめで、孫権は嘲り罵って刑罰を加えようと言いました。
さらにもう一週間祈り続けました。
決死の覚悟であります。
それでも舎利は出現せず、涙を流してあきらめかけていたところ、夜中に瓶の中に音がしたので見てみると、仏舎利が現れていたのでした。
孫権は本ものかどうか試して金槌で叩いてみたのですが、金槌がくぼんでしまい、舎利は少しも変じることはなかったのでした。
そこで孫権も仏法を崇敬して、建初寺を建てたという話です。
この話は、円覚寺の舎利講式でも読んでいるところです。
更に『仏教辞典』には
「仏の遺骨への讃仰崇拝は非常に強く、庶民の熱狂的な舎利信仰を示す出来事としては、538年、梁の武帝が長干寺阿育王塔から舎利や仏爪が出土した際に設けた無碍大会、557年、陳の武帝が即位6日目に法献が将来したという仏牙をもとに行なった無遮大会がある」
と解説されています。
更に日本ではどうかというと、
「日本における舎利信仰の文献上の初見は、584年(敏達13)、司馬達等が蘇我馬子に舎利を献じ、翌年、馬子が大和の大野丘に塔を建て、献上された舎利を柱頭に収蔵したことである。
平安時代には、舎利を供養する法会である<舎利講><舎利会><舎利報恩講>が行われた。
舎利会は、860年(貞観2)4月に延暦寺で行われたものが最も古いが、以後、盛んに行われた。
とくに鎌倉時代には、釈迦信仰の高揚にともなって、舎利信仰も大流行し、明恵・叡尊らによって<舎利講式>が作成され、舎利を納める舎利塔も数多く作製された。
室町時代にも、足利尊氏・直義によって諸国に一塔ずつ設定された利生塔(りしょうとう)には、2粒の舎利が納められた。」
と書かれています。
円覚寺の舎利は、佛牙舎利といって、お釈迦様の歯をお祀りしています。
円覚寺で唱えている舎利講式には、仏舎利が円覚寺にお祀りされるようになった経緯が説かれています。
もともとお釈迦様が帝釈天と約束していて、お釈迦様の滅後に仏舎利を天にお祀りするようにしていました。
帝釈天がお祀りしていたのを、ある魔王が奪いました。
それを毘沙門天が取り返しました。
帝釈天は感謝して、右の上の歯の舎利を与えたのでした。
それを毘沙門天は太子張瓊に守らせていました。
終南山道宣律師は戒徳高明な高僧として知られていました。
毎夜、庭間に行道し誦経しておられていました。
一夜転びそうになったところを助けてくれる者がいました。
誰が助けてくれたのかと思ってみると鎧兜を身につけた少年でした。
それが太子張瓊でありました。
道宣律師は、仏舍利のことを聞いて是非拝みたいとお願いしました。
すると道宣律師に、舎利が与えられたのでした。
律師は夜間には仏舎利を捧げて行道し、昼は地の穴に蔵していました。
杭州に能仁寺が創建されて、舍利はそこに納められました。
源の実朝公が一夜夢をみました。
宋国の能仁寺に行って、道宣律師の説法を聞いていました。
そして道宣律師は今や生まれ変わって日本の実朝公になっていると言われました。
当時寿福寺にいた栄西禅師も、雪の下の良眞僧都も同じ夜に実朝公と同じ夢をみました。
そこで三人合ってその霊夢について語り合いました。
実朝公は武将十二人を使節として舍利を拝請して帰朝させたのでした。
はじめ実朝公の建立した大慈寺にお祀りしていましたが、北条貞時公が舎利殿にお祀りするようにして、国家の鎮護としたのでした。
そんな由来があるのです。
十五日には無事舎利講式も終えることができたのでした。
横田南嶺