舎利講 – 今むかし –
それでも時にふと以前のことを思い起こすことがあります。
舎利講式を終えてホッとしたところではありますが、いろいろ複雑な思いにかられます。
やはりコロナ禍の影響は、思った以上に大きいものです。
コロナ禍の前までは、舎利講式は二日間に亘って行っていました。
初日には羅漢様を供養する羅漢講式を行い、翌日に舎利講式と管長法話に百味供養、そして大施餓鬼をおつとめしていたのでした。
それには円覚寺派の寺院の檀信徒が大勢お参りにくださっていたのでした。
私が修行僧だった頃には、二百名も三百名ものお参りでありました。
お寺にお泊まりになる方も大勢いらっしゃいました。
そんな皆様の布団を敷くのも私たち修行僧の仕事だったのでした。
信徒会館や、選仏場など、百名を超える方々のお布団を敷いて用意していたものです。
そして朝にはお布団をあげて、掃除をして朝ご飯を出してと、まるで旅館のようなお仕事でありました。
もう今となっては懐かしい思い出であります。
だんだんと年と共にお寺に宿泊なさる方は減ってきました。
もうホテルのようなところでないと、お寺に大勢が布団を敷いて雑魚寝をするようなことは、なかなか少なくなってきたのでした。
私も小学生の頃、高野山の宿坊で広い部屋に皆で雑魚寝した思い出があります。
それが今や個室が中心になっているとうかがっています。
前日の羅漢講式からお参りくださり、お寺に泊まって、早朝に祝聖の法要に出てそのまま舎利講式、そして管長法話、百味供養、そして大施餓鬼とお参りくださっていたのでした。
私が管長に就任した頃には、かつてほどの人数ではありませんでしたが、まだそうしてお泊まりになってお参りくださっていました。
それがコロナ禍の間は、開催できずにいますと、もう昨年と今年と泊まってお参りくださる方はゼロとなりました。
それではなんとか一日に縮めて行事を行おうと試行錯誤しているところであります。
一日にしましても、昨年お参りくださる方はゼロとなってしまいました。
かつて御案内していた円覚寺派のお寺の檀信徒の方々のお参りはとうとうゼロになってしまったのです。
舎利講というのが成り立たなくなったのでした。
そこで今年は三宝会の皆様にもご案内して開催したのでした。
「講」という言葉があります。
これも『広辞苑』で調べてみると、
「①仏典を講義する法会。最勝王講・法華八講など。
②仏・菩薩・祖師などの徳を讃嘆する法会。
③神仏を祭り、または参詣する同行者で組織する団体。
二十三夜講・伊勢講・稲荷講・大師講の類。
④一種の金融組合または相互扶助組織。頼母子講・無尽講の類。」
という解説があります。
三番の神仏を祭り、または参詣する同行者で組織する団体という意味であります。
円覚寺の場合仏舎利を信仰する方の集まりだったのでした。
それがとうとう参詣の檀信徒がいなくなり、三宝会の皆さんに御案内してお参りいただくことにしたのでした。
大きな変化であります。
舎利講という「講」でありますので、多くの方に集まってもらって、仏舎利にご縁を結んでいただくからこそ、意味があるものです。
今回は、舎利開帳の読経のあと、舎利講式のみを行い、そして小休止のあと、施餓鬼の法要をおつとめしました。
そしてお昼ご飯を召し上がっていただいたのでした。
羅漢講式、百味供養、管長法話などは省略としたのでした。
羅漢講式というのは、円覚寺に伝わる十六羅漢、五百羅漢の掛け軸をかけて、十六羅漢を勧請して行うものであります。
それから百味供養というのは、仏舎利と弁天様とにたくさんのお供物をみんなで、手から手へと渡しながらお供えしてゆくおつとめであります。
その間に円覚寺派のご詠歌が流れて、これがまた趣のあるものでありました。
またいつか開催できればと思っています。
また今まで舎利講式をただおとなえするだけでしたので、参列される方には全く意味が分からないのでした。
そのぶん管長法話で、少しは解説をするのですが、今回は時間の都合でそれもありませんでしたので、これは考えものだと思いました。
管長に就任する前に今まで漢文だった舎利講式の文章を読み下し文にしてすべての漢字にルビを打って作成したのでした。
それでも漢文の訓読のみでは、聞いていても理解は難しいものです。
中には名文もあるものです。
たとえば「三界無比の大法宝を円覚妙場に瞻礼することは肉親の如来を鷲嶺に拝するに同じ」という一文があります。
これは、この世に比べるものもない尊い仏舎利を円覚寺の素晴らしい道場で拝むことは、生きた如来を霊鷲山に拝むのと同じということであります。
また「独り恨むらくは、凡夫の肉眼只寶塔の舍利を粧うを見て、自己のあまねく荘厳するを知らず」という文もあります。
これは、残念なことには、私たち凡夫の肉眼では、仏舎利が寶塔に飾られたのは見えても、自分自身が仏様のように荘厳されていることに気がつかないという意味であります。
「仏を現在に供養すると舍利を滅後に供養すると二人の功徳正等なり」という文もあり、これは、今現に生きた仏様を供養するのと、仏様の滅後に舎利を供養するのと二人の功徳は同じだという意味の文章なのです。
こんな文章を唱えて供養していると、自ずから有り難い気持ちになるものです。
来年にはなんとか工夫しなければ思っています。
不易流行とよく言いますが、変わらないものを護るためには、変わることも必要なのであります。
横田南嶺