キョキョ(嘘嘘)
毎月一回の勉強会なのですが、九月が最終の月曜日になり、十月が最初の月曜日になったので、一週間ぶりの会となりました。
小川先生の『宗門武庫』の講義は、前回の続きであります。
慈照禅師の話であります。
こんな問答なのです。
「切り立った崖しかない無人の山奥、そこにも仏法はございましょうか?」という質問に対する答えです。
慈照禅師は「有る」と言います。
では誰もいない山奥の仏法とはどのようなものでしょうかという問いに、
「奇怪なる石頭、形、虎に似、
火、松樹を焼きて勢い龍の如し」という一句を答えたのでした。
ここを小川先生は、
「奇怪なる岩は虎のごとく、火に焼かれたる松は龍のごとし」
と訳されていました。
後に張無尽居士がこの句を好まれたそうですが、この話は慈照禅師の語録には載っていなくて、大慧禅師が、無尽居士から聞いたのを記されたということなのです。
この「奇怪なる石頭、形、虎に似、火、松樹を焼きて勢い龍の如し」の素晴らしさは、二句がきれいに対句になっているのですが、平仄も完璧に対になっていることにもあります。
やはりこの時代の官寺の住持になる方は、そうとうに学問も出来る方であったのです。
科挙の試験を受けるような方は、お若い頃から漢詩文の勉強をかなりなさっています。
平仄のそろった対句を作るようなことは、それこそ朝飯前にできただろうというのです。
「白髪三千丈」という李白の詩の一節があります。
これは『広辞苑』を調べても「李白、秋浦歌」の一節で、「長年の憂いのために頭髪が白くなり伸び放題になったこと。心配ごとや悲しみが積もることの形容。また、誇張した表現の例とされる」と書かれています。
たしかに「三千丈」とはいかにも大げさなのですが、これも平仄の上で意味があるのです。
次の句と平仄を完全にそろえるには、三千丈の「三千」の二文字は平字でないといけません。
ところが、中国の言葉で、数を表す言葉、一二三四五六七八九十、百千万とある中で、平字は三と千しかないのです。
そこで平仄を整えるには「三千」しかないということになるのです。
そんなことをていねいに小川先生は教えてくださいました。
また真浄克文禅師は、古の禅僧が誰もいない深山に仏法はあるかと問われてあると答えでいるが、十字街頭に仏法はあるかと問われたら、無しと答えると言っています。
どうしてかというと、それは名を貪り、利を逐うからだというのです。
たしかに下手に人々の往来する町にでると、名利に迷うこともあるでしょう。
しかし、やはり十字街頭で人々の為にはたらくも大事な禅の教えだと思います。
その小川先生のご講義の後に私が臨済禅師の話をしました。
『臨済録』の
「師が松を植えていると、黄檗が問うた、「こんな山奥にそんなに松を植えてどうするつもりか。」
師「一つは寺の境内に風致を添えたいと思い、もう一つは後世の人の目じるしにしたいのです」、そう言って鍬で地面を三度たたいた。
黄檗「それにしても、そなたはもうとっくにわしの三十棒を食らったぞ。」
師はまた鍬で地面を三度たたき、ひゅうと長嘯した。
黄檗「わが宗はそなたの代に大いに興隆するであろう。」
という一節を取り上げました。
ここで「嘘嘘」について考察しました。
入矢先生は、ここでは「ひゅうと長嘯した」と訳されています。
いろいろ調べてみると、「嘘嘘」の解釈については、次の四通りになります。
が従来の説です。
「からうそぶく。鼻にのせた」というのが無著道忠禅師の解説です。
「そらうそぶく、声を出しながらゆっくり息を吐く様子」と朝比宗源老師は『臨済録』に解説されています。
岡田自適居士の『臨済録贅辯』に
「空嘯く也、黄檗の如何なる悪口も物の数ともせず、嘯き笑って身に受けぬ、師学共に恰好の働きぞ」とあります。
ちなみに「そらうそぶく」とは、
「空を仰いでうそぶく。そらふく。何気ないさまをする。そらとぼけたふうをする。」という意味があります。
②に入矢先生の説です。
「喉の奥から息を長く吐きながら鋭い音を出す。つまり長嘯すること」と入矢先生の『臨済録』には注釈されています。
「ゆっくり息を吐きながら喉から出す鋭く細い声。とは『禅語辞典』にある解説です。
③が柳田聖山先生の説です。
「よいしょ、よいしょとゆっくり息を吐き出す様子」と『仏典講座30臨済録』に解説されています。
④が衣川賢次先生の説です
「「シッ、シッ!」。「嘘!嘘!」は不満、制止を示す擬音語。
相手の対応を認めないしぐさ。ここで義玄は黄檗に対して超師の気概、自信のほどを示している」と衣川先生の『臨済録訳注』に解説されています。
小川先生にこの「嘘嘘」についてうかがうと、それは中国の言葉で、相手の発言を制止したり、人を追い払ったり、口から出てしまった不吉な言葉を消し去ったりする際に言う言葉で、「xu! xu!」(シーッとシューッの中間の音)というのだと教えてくださいました。
これは実際に小川先生は、中国の方と今も使っているそうなのです。
臨済録のこの箇所も、それにあたるという解説をしてくださいました。
嘘を「うそ」という意味に使うのは日本語の用例で、中国にはありません。
大乗寺の河野老師は、小学館『中日辞典』第二版にある解釈を教えてくださいました。
口を大きく開けてゆっくり息を吐く。
ため息をつく
〈方言〉「嘘」と言って反対や不満を表す。ブーイング。
というのです。
この反対や不満を表す、今日の「ブーイング」に近いものだというのです。
こうして学びますと、この「嘘嘘」は、そらうそぶくや長嘯するよりも、衣川先生の注釈にある「不満、制止を示す擬音語」として、「相手の対応を認めないしぐさ。ここで義玄は黄檗に対して超師の気概、自信のほどを示している」というのがふさわしいと思ったのであります。
更に「嘘嘘」の用例として、小川先生は馬祖の語録を示してくださいました。
禅文化研究所の『馬祖の語録』から現代語訳を引用します。
「鄧隠峰が、馬祖のところをいとまごいしようとした。
馬祖、「どこに行く」。
「石頭に行きます」。
馬祖、「石頭の路はすべるぞ」。
「あやつり人形のつもりで、その場次第で演技をやりますよ」。すぐさま出かけた。
石頭に着くやいなや、禅牀を一巡りし、錫杖を一振りして問うた、「これは何の宗旨か」。
石頭、「やれ悲しや」。隠峰は言葉もなかった。
引き返して馬祖に報告すると、馬祖、「君、もう一度行け。彼がやれ悲しやと言ったら、すぐにフーッと二回息を吐け」。
隠峰はまた行って、全く前と同じようにして問うた。
すると石頭はフーッと二回息を吐いた。
隠峰はまた何も言えなかった。もどって馬祖に報告すると、馬祖は言った、「石頭の路はすべるぞと言っておいたろ」
というのです。
「フーッと二回息を吐く」というのが「嘘嘘」なのですが、「やれ悲しや」というような不吉な言葉を消し去ったりする「シー、シー」と読んだ方が、意味がはっきりします。
そんな次第で臨済録の「嘘嘘」について学び直し、とても勉強になった会でありました。
横田南嶺