岩頭和尚はまめ息災
宝永の噴火は、『広辞苑』にも載っています。
「富士山宝永噴火」として、
「宝永4年(1707)に起きた、現在のところ最後の富士山噴火。
爆裂により宝永火口・宝永山が形成。江戸にまで降灰し、広範囲に被害をもたらした。」と解説されています。
「宝永山」というのは、
「富士山南東側の中腹にある側火山。
宝永4年(1707)爆裂のため一山峰を形成したもの。
標高2693メートル。」
というものです。
このとき以来今のところ、富士山の噴火は起きていないのです。
噴火は十一月二十三日で、十二月八日頃に鎮まったようです。
そしてその明くる年、白隠禅師二十四歳のとき、越後に行きます。
越後高田の英岩寺に行き生鉄和尚に参じようとしたのでした。
生鉄和尚の人天眼目の講筵に連なったのでした。
そのときの修行振りについて『白隠禅師年譜』には次のように書かれています。
芳澤勝弘先生の現代語訳を引用します。
「英岩寺の後に、開基である越後高田藩主戸田忠真のお霊屋があった。
講席のないときには、ここで坐禅をした。
『禅関策進』を師として日夜研究すること累日、ときには寝食を廃して坐った。
講席に出ても、講義の声は耳に入らず、食堂に行って食事を受け取っても、それが眼に入らない。
人を見ても陽焔が浮かんだように見える。
自分の体は雲の中に浮かんでいるようであった。
まるで水晶世界にあるようで、森羅万象のいっさいが透明で一点の翳もないようであった。
慧鶴は、このように現われて来た境に執着することなく、なおも精神を奮起して、現われる境界にとらわれず、単々と重荷を荷って瞼しい嶺に登るように、参じていた話頭を拈提し、いついかなる時も、何をするときも、一つの異念もまじえずに工夫をつづけ、前後十数日を経た。
二月始めから十六日の夜に至った。」
というのであります。
そこで大きな体験をします。
こちらも『年譜』から参照します。
「ある夜、お霊屋で坐禅して、恍惚としているうちに明け方になった。
そのとき、遠くの寺の鐘の音が聞こえて来た。
かすかな音が耳に入ったとき、たちまち根塵が徹底的に剥げ落ちた。
さながら耳元で大きな鐘を撃ったようである。
ここにおいて、豁然として大悟して、大声で叫んだ、
「わっはっはっ。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。岩頭和尚はまめ息災であったわやい」と。
すぐに走って生鉄和尚に相見して、所見を呈した。
和尚の対応が俊敏ではなかったので、慧鶴は和尚を平手打ちして室内を出た。
そのあと、仏灯和尚や長首座に会って、所見を述べたが、いずれも、機語が契わないので、払袖して去った。」
という体験をなされたのでした。
「まめ息災」の「まめ」には、
①まごころがあること。まじめ。誠実。本気。
②労苦をいとわずよく勤め働くこと。
③生活の役に立つこと。実用的。
④身体の丈夫なこと。たっしゃ。息災。
という意味がありますが、ここでは身体の丈夫なことを言います。
「息災」の「息」は、とどめる意であり、
「①〔仏〕仏・菩薩の力などによって災厄を消滅させること。
②身にさわりのないこと。達者。無事」という意味があります。
ここでは身にさわりのないこと、達者、無事という意味です。
岩頭和尚のことは、十九歳のときに、賊に襲われて死んだことを知って、大いに失望落胆したのでした。
しかし、その岩頭和尚は死んではいない、今もまめ息災だというのです。
岩頭和尚は元気で達者だと叫んだのでした。
これより、自分の体験した境地に大いに自信をもって、諸方の善知識を見下して、「三百年来自分のように痛快に悟った者はいないであろう。天下に我が機鋒に対抗できる者は一人もおるまい」と思うようになっていったのでした。
そのころ、一人の僧がやって来て、掛錫を求めました。
冷厳な顔つき、その視線も尋常ではありません。
英岩寺の役位の者たちはみな、これは胆のすわった男だと思ったのでした。
毎日提唱が終わって、修行僧達がその内容について意見を交換していました。
この新しくやってきた修行僧の見解は尋常ならざるもので、白隠禅師も大いに驚いたのでした。
『年譜』には次のように書かれています。
「慧鶴は、この男の解釈を素晴らしいと思い、ある時、その来歴をたずねた。
すると、「自分は信州の道樹宗覚という者だ。
飯山の田舎に正受老人という、愚堂国師の法孫がおられ、もっぱら向上の禅を提唱しておられる。
じつに機鋒哨峻の方で、その厳しい指導を多年受けて来たのだ」という。
慧鶴はその次第を聞いて、すぐにでも正受老人に相見したいと思った。
すると宗覚が言った、
「そうしたらいいだろう。
そなたの器といい識見といい、老人の指導を受けるに堪えるだろう。
だが、仲間と一緒に行ってはならぬ、貴公ひとりだけで行くほうがいい。
老人はほんものの修行者だけを望んでおり、大勢が集まるのを嫌っておられるからだ」。」
というのです。
かくして白隠禅師二十四歳の四月に飯山の正受庵に行き、正受老人に参禅し、大いに鍛えられるのです。
そして後に正受老人の法を継承するようになるのであります。
かくしてその法統は今に伝わるのであります。
横田南嶺