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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.10.13
今日の言葉

岩頭和尚はまめ息災

宝永の大噴火の時にも松陰寺で微動だにせず坐禅していた白隠禅師でした。

宝永の噴火は、『広辞苑』にも載っています。

「富士山宝永噴火」として、

「宝永4年(1707)に起きた、現在のところ最後の富士山噴火。

爆裂により宝永火口・宝永山が形成。江戸にまで降灰し、広範囲に被害をもたらした。」と解説されています。

「宝永山」というのは、

「富士山南東側の中腹にある側火山。

宝永4年(1707)爆裂のため一山峰を形成したもの。

標高2693メートル。」

というものです。

このとき以来今のところ、富士山の噴火は起きていないのです。

噴火は十一月二十三日で、十二月八日頃に鎮まったようです。

そしてその明くる年、白隠禅師二十四歳のとき、越後に行きます。

越後高田の英岩寺に行き生鉄和尚に参じようとしたのでした。

生鉄和尚の人天眼目の講筵に連なったのでした。

そのときの修行振りについて『白隠禅師年譜』には次のように書かれています。

芳澤勝弘先生の現代語訳を引用します。

「英岩寺の後に、開基である越後高田藩主戸田忠真のお霊屋があった。

講席のないときには、ここで坐禅をした。

『禅関策進』を師として日夜研究すること累日、ときには寝食を廃して坐った。

講席に出ても、講義の声は耳に入らず、食堂に行って食事を受け取っても、それが眼に入らない。

人を見ても陽焔が浮かんだように見える。

自分の体は雲の中に浮かんでいるようであった。

まるで水晶世界にあるようで、森羅万象のいっさいが透明で一点の翳もないようであった。

慧鶴は、このように現われて来た境に執着することなく、なおも精神を奮起して、現われる境界にとらわれず、単々と重荷を荷って瞼しい嶺に登るように、参じていた話頭を拈提し、いついかなる時も、何をするときも、一つの異念もまじえずに工夫をつづけ、前後十数日を経た。

二月始めから十六日の夜に至った。」

というのであります。

そこで大きな体験をします。

こちらも『年譜』から参照します。

「ある夜、お霊屋で坐禅して、恍惚としているうちに明け方になった。

そのとき、遠くの寺の鐘の音が聞こえて来た。

かすかな音が耳に入ったとき、たちまち根塵が徹底的に剥げ落ちた。

さながら耳元で大きな鐘を撃ったようである。

ここにおいて、豁然として大悟して、大声で叫んだ、

「わっはっはっ。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。岩頭和尚はまめ息災であったわやい」と。

すぐに走って生鉄和尚に相見して、所見を呈した。

和尚の対応が俊敏ではなかったので、慧鶴は和尚を平手打ちして室内を出た。

そのあと、仏灯和尚や長首座に会って、所見を述べたが、いずれも、機語が契わないので、払袖して去った。」

という体験をなされたのでした。

「まめ息災」の「まめ」には、

①まごころがあること。まじめ。誠実。本気。
②労苦をいとわずよく勤め働くこと。
③生活の役に立つこと。実用的。
④身体の丈夫なこと。たっしゃ。息災。

という意味がありますが、ここでは身体の丈夫なことを言います。

「息災」の「息」は、とどめる意であり、

「①〔仏〕仏・菩薩の力などによって災厄を消滅させること。
②身にさわりのないこと。達者。無事」という意味があります。

ここでは身にさわりのないこと、達者、無事という意味です。

岩頭和尚のことは、十九歳のときに、賊に襲われて死んだことを知って、大いに失望落胆したのでした。

しかし、その岩頭和尚は死んではいない、今もまめ息災だというのです。

岩頭和尚は元気で達者だと叫んだのでした。

これより、自分の体験した境地に大いに自信をもって、諸方の善知識を見下して、「三百年来自分のように痛快に悟った者はいないであろう。天下に我が機鋒に対抗できる者は一人もおるまい」と思うようになっていったのでした。

そのころ、一人の僧がやって来て、掛錫を求めました。

冷厳な顔つき、その視線も尋常ではありません。

英岩寺の役位の者たちはみな、これは胆のすわった男だと思ったのでした。

毎日提唱が終わって、修行僧達がその内容について意見を交換していました。

この新しくやってきた修行僧の見解は尋常ならざるもので、白隠禅師も大いに驚いたのでした。

『年譜』には次のように書かれています。

「慧鶴は、この男の解釈を素晴らしいと思い、ある時、その来歴をたずねた。

すると、「自分は信州の道樹宗覚という者だ。

飯山の田舎に正受老人という、愚堂国師の法孫がおられ、もっぱら向上の禅を提唱しておられる。

じつに機鋒哨峻の方で、その厳しい指導を多年受けて来たのだ」という。

慧鶴はその次第を聞いて、すぐにでも正受老人に相見したいと思った。

すると宗覚が言った、

「そうしたらいいだろう。

そなたの器といい識見といい、老人の指導を受けるに堪えるだろう。

だが、仲間と一緒に行ってはならぬ、貴公ひとりだけで行くほうがいい。

老人はほんものの修行者だけを望んでおり、大勢が集まるのを嫌っておられるからだ」。」

というのです。

かくして白隠禅師二十四歳の四月に飯山の正受庵に行き、正受老人に参禅し、大いに鍛えられるのです。

そして後に正受老人の法を継承するようになるのであります。

かくしてその法統は今に伝わるのであります。

 
横田南嶺

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