大噴火の時も坐禅
松山の正宗寺では四十二章経の一節に感動しました。
どんな一節かというと、原文は漢文ですが、現代語に意訳してみます。
「仏さまが仰せになった、仏道を修めるものは、ちょうど木が水にあって、川の流れにそって行くようなものだ。
両岸に触れず、人に取られたりせず、ばけものに遮られず、うずまきに巻き込まれてとどまったりせず、また腐ったりしなければ、私はこの木が流れて必ず海に入ることを保証する。
それと同じように道を学ぶ者も、欲望の為に惑わされず、さまざまなよこしまな誘惑に乱されず、悟りを求めて精進してゆけば、この人は必ず真の道に入ることを保証する」というところです。
『白隠禅師年譜』には次のように書かれています。
禅文化研究所発行の『白隠禅師年譜』から芳澤勝弘先生の現代語訳を引用します。
文中にある慧鶴というのは白隠禅師のお名前です。
「これまで慧鶴は決定信をもって修行をして来たけれども、心中には「諸仏無上の妙道というものは、我れがごとき小智小徳の者の及ぶところではないだろう」という疑いがあった。
そこでこのような金言に出会って、心中の細惑は底を払って絶えたのである。
まだその道を成就できていたわけではなかったが、あたかも千里の遠きを旅していた者が、始めて郷里に戻った心地がしたのである。
それからは、『禅関策進』を友とし、『仏祖三経』を師とし、居るときは机上に置き、出るときには携帯し、多年、この両書を離すことがなかった。」
というのであります。
そのあと、白隠禅師は兵庫に行きます。
途中で友の一人が病気になり、白隠禅師は、その友人の荷物も持ってあげました。
すると、豪胆な者がいて、これをからかい半分に褒めたので、白隠禅師は三つの荷物を担って歩きました。
そして「願わくはこのわずかな善事によって、速やかに見性の素懐が遂げられますように」と心に念じながら、杖をたてて一歩一歩、長い道中を「無字」の公案を拈提しながら進んだのでした。
そのあとにこんなことが起きました。
こちらも『年譜』から芳澤先生の現代語訳を引用します。
「兵庫の津に着くと、ちょうど出る船があったので、みな喜んでこれに乗り、山を眺め月を見ながら進んだ。
慧鶴は重い荷物を運んで来たために、すぐにぐっすりと寝入った。明け方になってようやく目が覚めた。
ふと見れば、船は大きな橋の下を通っている。
行き来する人は前の十倍にもなっている。
おかしいと思って船頭に「まだ港を出てないのか、途中なのか」とたずねると、船頭は「こいつ寝ぼけて何を言っているか。夕べは途中で大波で大変だったんだ。一緒に出航した船が十艘あったが、助かったのはこの船だけだ。お坊さん方はみんなお経を読んで祈り、わしも髻を斬って助かるよう龍王に祈ったんだ。
こんな急難だというのに、おまえさんだけは船底で大いびきをかいて寝ていたとは。
長いこと船頭をして来たが、こんな胆の太い奴は初めて見た」と。
そう言われて、驚いてまわりを見ると、皆は鉢巻きをして、顔色は土のようで、右に倒れ左に臥して、気息奄々たるありさまである。おまけに、いたるところに嘔吐があり、手脚の着けようがない。
慧鶴は合掌して、「ありがたや、諸聖の擁護によって、私一人だけは昨夜の難を知らなかった。
もし熟睡していなかったら、どれだけ大変であったことか」と祈った。
そこで船を降り宿に入って、(道友たちのために)薬を用意して苦悩を解いた。
白隠老師は後になって弟子たちに誡めて言われた、「陰徳陽報である。老衲はその時に初めてそのことが本当だと分かった」と。」
というのです。
美濃の瑞雲寺の馬翁和尚が病気であると聞いて看病しました。
馬翁和尚の病気が治ったので、白隠禅師は郷里に帰ります。
これが宝永四年、西暦一七〇七年です。
この年の十二月に宝永の大噴火がありました。
富士山が噴火したのです。
『白隠禅師年譜』から引用します。
「この冬、富士山の内輪から火が噴き出して山の中心部が数日にわたって焼けた。山河は音をたてて揺れ動き、(噴煙で)日も月も隠れた。そのうちに、火の勢いは東の中腹に移って、そこから(溶岩が)流れ出した。
さながら無底の黒火坑が現われたようである。そして噴煙があがって万畳の雲となり、焔がほとばしり百千の雷が閃いた。砂石が大雨のように降り、大地は震動して壊れんばかりであった。
火口の方面にあった村落では、降る砂石のために活き埋めとなった者が幾千人も出た。」
という大噴火でした。
その時に白隠禅師は原の松陰寺にいらっしゃったのです。
こちらも『年譜』から引用します。
「この時、松蔭寺のあたりも大地が大揺れし、建物は音をたてて震動した。
兄弟子と手伝い方の童僕たちは、みな走って、一緒に郊外に逃げてうずくまっていた。
しかし、慧鶴だけは、ひとり本堂で兀然と坐禅をした。そして心に誓った、
「もし自分に見性することのできる運勢があるならば、諸聖が必ずやこの災害から守ってくれるであろう。もしさもなくば、壊れる家の下敷きになって死のうとままよ」と。
そこに生家の俗兄(古関)がやって来て、「危険が目の前にあるというのに、おまえは何で悠々とこんなことをしておるのか」と言う。
慧鶴は「わが命は天に預けたから畏れることはない」と答えた。
俗兄は再三にわたって説得したが、慧鶴は堅く誓って起たず、なおも誓願をたてて、この嶮難のさなかで工夫を試みた。
やがて鳴動がおさまった。慧鶴は端然として、一つも損傷するところはなかった。」というのであります。
若き日の一途に修行に打ち込んだ白隠禅師でありました。
横田南嶺