流れる水のように
そのためにこそ、仏道を求めたのでした。
数え年十五歳で原の松陰寺で御出家なさいました。
その頃の白隠禅師は、
「自ら誓って言った、
「もし肉身にして火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わざる底の道力を得なかったら、たとい死すとも休せじ」と。これより、いよいよ精神を奮い、日夜に誦経し作礼した。」
と『年譜』に書かれているように修行に励んでいたのでした。
それから十六歳で大聖寺の息道和尚について学びました。
法華経を読んで疑問をいだいたのものこの頃です。
年譜には次のように書かれています。
年譜の言葉は、禅文化研究所発行の『白隠禅師年譜』にある芳澤勝弘先生の現代語訳を引用します。
「自ら訓点を加えて、何回も熟読したのだが、
「唯有一乗」とか「諸法寂滅」などと書かれている他は、ことごとく因縁譬喩の話ばかりであった。
そこで巻を閉じて思った、
「こんな経に功徳があるならば、諸史百家や、謡曲本や伎芸の類の書でも功徳があるだろう」と。
ここにおいて大いに素志を失い、憤々として楽しまぬ日々であった。
それからは、禅宗にも疑いを抱くようになった。」
というのであります。
更に追い打ちをかけたのが、十九歳のとき岩頭和尚の話を聞いたことでした。
清水の禅叢寺に行って修行していた時です。
まわりの修行僧たちは、みな書物を読み文字にかかずらわっていたのですが、白隠禅師だけは、仏道修行に専念していました。
住持の千英和尚が、「江湖風月集」を提唱されました。
千英和尚が、提唱していて、唐の時代の禅僧岩頭和尚が、船の渡し守をしていたことに触れられました。
白隠禅師は岩頭和尚の行履を詳しく知るために、『五家正宗賛』で調べました。
すると岩頭和尚は、賊に襲われて殺されてしまったことを知ります。
そのときの叫び声が、数十里に聞こえたというのです。
この話を読んで、白隠禅師は、大いに煩悶しました。
『年譜』には次のように書かれています。
こちらも芳澤先生の現代語訳を参照します。
「盗賊の難すら避けることができないようでは、どうして地獄の業を逃れることができよう。
岩頭和尚は禅門の鸞鳳のごとき人ではないか。
その岩頭和尚でさえも、こういうことならば、自分など、どうして地獄の苦報を免れることができよう。
こう考えてみれば、参禅学道などは何の益もないではないか。
ああ、仏法はウソ話で信ずるに足らん」と。
これより大いに懊悩して、飲食の喉を通らぬこと数日であった。
そして思った、「自分は錯まって出家してしまったのではないか。かといって、今さら還俗するのも恥ずかしい。進むことも退くこともできないし、避ける方法もない。
もし自分があの恐ろしい地獄に堕ちるならば、単嶺和尚や息道和尚も、いやそればかりか、これまでの歴代の諸師方もまた堕ちたらいい。
ならば、したいことをして、毎日を愉快に過ごすほうがいい」と。それからは、詩文に耽著し、筆墨を事とし、大いに外道の考えを起こし、時には魔群の業を習った。経や仏像を見るごとにはなはだしく厭悪感を生じたのだった。」
というようになってしまったのでした。
純粋な方だっただけに、失望も大きかったのだと察します。
それが更に二十歳の時に美濃の瑞雲寺に行き、馬翁和尚のもとで修行していた時に「禅関策進」に出会うのです。
寺で虫干しをしていて、たくさんの書物が台の上に積まれていました。
そのなから白隠禅師は、どうか私にこれから進み行くべき道を示してくださいと諸天に祈りを捧げて、一冊の本を取り上げると、それが「禅関策進」でした。
押し頂いて開いてみると、慈明禅師の話が載っていました。
夜坐禅していて眠気に襲われると錐で股を刺して坐禅したという話です。
そこで白隠禅師は今までの考えを改めて再び修行に励まれたのでした。
二十一歳のころに当時の不生禅の様子に落胆してしまいます。
「壁生草」には次のように書かれています。
「霊松院には五十人ばかりの雲水がいたが、残念なことに、ことごとく流行りの黙照枯坐の不生禅であった。
老いも若きも、一日二度の食事以外の時間は、ずらりと列なっての居眠り坐禅、舟を漕ぐばかりである。
夜も更けて開枕(就寝の合図)の鐘が鳴ると、一斉に枕をならべて列なり眠り、一同、声をそろえて「大安楽、大安楽」などと言っている始末である。
そんな中で、私一人だけは勇猛心を奮い起こし、決して横になるまいと、少しも睡らず夜坐をした。
思えば、彼らの「大安楽、大安楽」という言葉が、かえって私の不臥不睡を励ます方便ともなったのである。」
という状況であったようなのです。
盤珪禅師はご立派な方でありましたが、その系統の方が、安易な修行に流れてしまっていたのでした。
二十二歳で、白隠禅師は若狭小浜の常高寺に行き、更に四国に渡り、伊予松山の正宗寺に行きました。
そこで逸禅和尚の仏祖三経の提唱を聞き、四十二章経に深く感銘を受けたのでした。
城下のお役人の家に呼ばれて、主がたくさんの掛け軸を見せてくれました。
その中に絹に包んで箱にいれてとても大切に扱われている書がありました。
開けてみると、大愚和尚の墨蹟でした。
書は自在に書かれていますが、それほど巧みとも思われませんでした。
そこで白隠禅師は、「文字の巧拙ではない、徳の徳たるゆえんだ」と気がつき、文字を学ぶよりも、大いに修行に励んだのでした。
二十三歳で、愛媛から海を渡り、福山の正寿寺に行きます。
更に岡山に行きましたが、仲間達は岡山の壮麗なお城を見物していましたものの、白隠禅師は、「修行もできていないのにどうして観光などできようか」と瞑目してお城を見ることはなかったのでした。
修行一途な白隠禅師でありました。
岡山から播州にいたり、ある山寺で一晩泊まりました。
そこで谷川が流れているのを見て感じるところがありました。
そして漢詩を作りました。
「山下に流水有り、滾々として止む時無し。
禅心若し是の如くならば、見性豈に其れ遅からんや」という詩です。
流れる水が滾々として止む時がないように、修行もまたそのように怠ることなく務めれば、悟りが開けるのも遅くはないであろうという意味です。
その後もこの流れる水のように止むことなく白隠禅師は修行に励まれたのでした。
「山下に流水有り、滾々として止む時無し。
禅心若し是の如くならば、見性豈に其れ遅からんや」
白隠禅師二十三歳の時の漢詩であります。
横田南嶺