自分が自分で自分する
仏とて ほかにもとむる心こそ まよひのなかの まよひ成けり
という歌があります。
これは臨済禅師の教えをよく言い表しています。
『臨済録』の中にこんな言葉があります。
岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照しましょう。
「諸君、時のたつのは惜しい。それだのに、君たちはわき道にそれてせかせかと、それ禅だそれ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、〔いわゆる]善知識を求めて臆測を加えようとする。
間違ってはいけないぞ、諸君。君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。
このうえ何を求めようというのだ。
自らの光を外へ照らし向けてみよ。
古人はここを、『演若達多は自分の頭を失って探し廻ったが、探す心が止まったら無事安泰』と言っている。
諸君、まあ当たり前でやっていくことだ。あれこれと格好をつけてはならぬ。
世間にはもののけじめもつかぬ悪僧の手合いがいて、何かといえば神がかりをやらかし、右へ左へとくるくる向きを変え、『やあいい日和だ、やあいいお湿りだ』と御託を並べる。こんな輩は、みんな閻魔王の前で焼けた鉄丸を呑んで借りを返させられる日が来るだろう。
ところが、しゃんとした生まれのはずの修行者たちが、こんな狐狸の手合いに化かされて、さっそくうろんなことをやらかす。
愚か者め。閻魔王に飯代を請求される日がきっと来るぞ。」
というのです。
実に臨済禅師の教えらしい一節であります。
このあたりのところについて山田無文老師は禅文化研究所の『臨済録』で次のように提唱されています。
「你自ら返照し看よ」というところから参照します。
「じっと坐禅をして、自分の意識の中を深く掘り下げて行ってみよ。深く自己反省をしてみよ。
そこに諸仏の本源というものがあるのだ。
古人云く、「演若達多、頭を失却す、求心歇む処、即ち無事」と
古人というのは、お釈迦さまのことだ。
これは、『首楞厳経』の中にある話である。
富楼那尊者にお釈迦さまが説かれた譬えである。
室羅という街に演若達多という美貌の青年がおった。
毎朝、鏡を見て化粧をしておったが、ある日、鏡を見たところ、頭がない。
きっと夕べ寝ておる間に頭を取られたに違いない、と街の中へ出て、私の頭をご存じありませんか、そこらに落ちていはしませんでしたか、と言うて頭を尋ねて歩いた。
そう言うておるのが、おまえさんの頭ではないか。
おまえさん、頭があるから尋ねておれるんではないか、と言ってみなに笑われた。
そう言われて、頭に手をやってみたら、頭がちゃんとあった。
その日の朝はうろたえて、鏡の裏で見ておったのである。
そういう話があるが、みんなもそうだ。
心の中にちゃんと仏を持ちながら、その仏を放って置いて、外に向かって仏を求め神を求めているのだ。外に向かって求める心がなくなった時に、初めて無事是れ貴人だ。
もう何も求めるものはない。天下に求めるものは何もないというところが、臨済の境地である。」
と説かれています。
外に求めるなといっても臨済禅師も黄檗禅師のもとを訪ねて、三度仏法の大意を問い、更に大愚和尚のもとを訪ねているのであります。
そのおかげで無事なることがわかったのであります。
青山俊董老師の『道はるかなりとも』(佼成出版社)にこんな言葉があります。
内山興正老師に、青山老師が質問されたという話です。
「お釈迦さまは『人を拠り所とするな、法を拠り所とし、みずからを拠り所とせよ』とおっしゃり、道元禅師は「正師を得ざれば学ばざるにしかず』とまでおっしゃって、正しい師に出会うことを大切にされました。
一見矛盾したように見えるこのお二人のお言葉を、どう受け止めたらよいでしょうか」と。
老師のお答えは次のようでした。
「それはどこまでも法であり、坐禅でしょうね。しかしその法や坐禅と間違いない姿で出会わせていただくために、正師が大切なんです。
ひとりよがりの間違った法のいただき方、坐禅の取り組み方をしてはいけませんからね。
しかし人はあくまで仏法や坐禅と出会わせていただくための結縁となる人であって、最後の拠り所ではない。
第一、正師を択ぶのは、目のない学人が択ぶのであって、求道のその初め、正師と思って択んだ人が、自分の寸法が伸び仏法がわかってきたとき、正師ではなかったと気づく日もあるかもしれない。
またどんな正師であっても、無常の世の中、どんな病に侵されるかわからん、ぼけてくる日だって必ずある。
やはり最後は法を拠り所とし、坐禅を本尊として生きる、ということでしょう」
という内山老師の答えであります。
そこから青山老師は、沢木興道老師の「自分が自分で自分する」坐禅を説かれています。
自分が自分で自分する、それですべて満ち足りているのだと気がつくまでには、やはり幾たびかの回り道があるのです。
山田無文老師は「無事是れ貴人」について、
「何かを求め、何かをありがたがっておるうちは、自分が足らんからじゃ。行くところへ行き着いておらんからじゃ。
天下に求めるものは何もない。
腹が減って食う物がなければ、飢え死にすればいい。
死ぬまで寝ておったらいい。人間、なかなか死ねるものじゃない。
無事是れ貴人だ。」
と提唱されています。
外に求める気持ちがおさまったことを臨済禅師は無事といいました。
それは、自分が自分で自分する、そんな坐禅を実践することでもあります。
横田南嶺