中は空っぽだからよい
控え室の床の間には、松原泰道先生の「花無心にして、蝶を招く」の軸を掛けてくださっていました。
松原先生がよく好まれた句です。
花無心にして、蝶を招き
蝶、無心にして花を尋ぬ
花ひらくとき蝶来り
蝶来るとき花ひらく
われもまた人を知らず
人もまたわれを知らず
知らずして帝則に従う
松原先生はその著『一期一会』で
「花も蝶も、ともに招きたいとも尋ねたいとも思わず願わず、しかも出あっている。
良寛はそれを「帝則に従う」とうたう。
帝則とは孔子の『詩経』によると、天帝(天にあって宇宙を支配する権威者)の理法とある。
しかし、仏教思想では、そうした人間を支配するオールマイティの存在を考えない。
良寛はおそらくは、因縁の法を「帝則」と表現するのであろう。
わたくしは、それを無心のえにしと呼びたい。
無心のえにしで結ばれたのだから、語らいもまた無言である。
わたくしはそれを無声の語らいと考えたい。
花も蝶も、無心の縁のままに精いっぱい咲き、精いっぱい舞っている。」と説かれています。
そしてその床には、藤の実が、青竹に活けられていました。
これも青山俊董老師がご自身でお生けくださったのです。
それからもう一間、着替えの部屋も用意してくださっていました。
私の方は、すでに法衣を着て参りましたので、着替えの為に部屋などは使わないのです。
しかし、使わないでいると、青山老師が、その部屋には「環中虚」という書をかけておいたと説明してくださいましたので拝見しました。
そしてその部屋に坐っていると、お庭にある水琴窟のなんともいえぬよい音色が聞こえてくるのでした。
午前の講義を終えて、お昼ご飯を、尼僧さんたちが丁寧に作ってくださったお料理をいただいていました。
ご飯にお汁に、そして煮物と和え物、それにおつけものです。
どれもよい味付けで、体にも良さそうで、満ち足りた思いになります。
お昼をいただいた後、そのもう一つの部屋の床の書を拝見していると、なんともいえぬ水琴窟の音が聞こえてきたのでした。
まさにこれは「好夢」好き夢の中だと思って味わっていました。
「好夢」という言葉を使うことも私などはめったにないのですが余語翠厳老師はよく揮毫なされたそうなのです。
そこで円覚寺に帰って余語老師の『宗教の風光』という書物を拝読していると、「好夢」について書かれていました。
一部を引用します。
「法華経安楽行品の最後の偈の中に
常に是の好夢あり
とある。
その次に続く讃歌は釋尊の生涯を簡潔な表現で述べられてある。
この文字は、百福の相荘厳せる釋尊への讃歌であることは、前後の文章からよくわかることである。
されど、迷妄と苦慮の中にある吾人の生涯は何と観ずればよいのか。
思うに、世に生きてある吾人の生涯は哀歓相半し、 苦楽相交る。
それが善悪を分ち美醜を立て、 愛憎に彩られる分別の所産であることとうけとっても、善悪、美醜に彩られて、そうせずにおれぬ根本無明を如何ともすることはできない。
関東大震災に苦難をうけて、何が故にこの苦難をうけねばならぬのか、世に神佛はないのかと、恨心を抱いた時に、今うけておるこのすがたを、よしあしと判断するそのことが間違いであって、よしあしの判断は神、佛の側にあることだと氣がついて、目からうろこが落ちたようにはっきり心が落ちついたという述懐をきく。
順縁と逆縁と、気楽と苦難とにあざなわれて生涯を過し行くそのまゝの全体が、天地の生命そのものと氣付く時に、判断夫れ自身がよけいな分別とわかる。
お互にわがまま勝手な見込みをやめる時に、四隣にさわやかな天地が開ける。」
と書かれていて最後には、
「私共の全生涯、そのまゝに「好夢」と感ずることができる」と説かれています。
それから床の間の「環中虚」もまた余語老師の書でありました。
『荘子』に
「相対的な彼此を越えたもの、それを道というが、枢なればこそ環の中心を占めて無限の変化に応じるのである。
このように見れば、是も無限の変化の中の一つであり、非も無限の変化の中の一つである。
故に「拘われぬ明智を用いるのが第一だ。」というのである。」
という意味の言葉があります。
こちらは明治書院の『新釈漢文体系荘子』にある現代語訳です。
そして解説には、
「道を枢に譬える。
「枢」はとぼそ、上下のしきいに穿った穴。
これに戸の支柱をさしこみ、戸の回転を円滑にする。
回転する戸の最も重要な部分である。
世の動きを戸の回転に譬えれば、その軸になるものが、枢に譬えられる道である。」
「「環中」は円の中心。
戸の回転によって描かれる線を環に譬える。
変化の中心になっていて、そのものは少しも動かないので、環中を得るという。」
と解説されています。
『宗教の風光』には「環中虚」について次のように書かれています。
一部を引用します。
「人間、生きておるどんづまりは、主義主張などと云うものからはるかに遠い。
いろいろと修行し鍛錬して、自ら悟り、特殊技能を習得することをめあてとするものもいる。
一方には、そんなことをするいとまのないものもいる。
お互は特殊技能者などになることは必要ではない。
「かくの如きものが、かくの如く生きている」ことに氣付けば、それが生かされてあると云うことである。
環「たまき」の中はからっぽである。
よくものを通す。
塞がることはない。
お互に、余計な主義主張をもたぬことである。
いつも「からっぽ」でおればよいことである。
天地の絶妙の攝理の中に安じておることである、それが「虚」と云うことである。
歴史を学ぶと云うことは、このことに氣がつくことである。」
というのです。
青山老師は、水琴窟に喩えて、水琴窟には土の中に甕を埋めるのですが、この甕は空っぽだから音がするのですと仰いました。
たしかにその通りで、中に物がつまった甕では何の音もしないのです。
これももっと空っぽになれという老師のお示しかと有り難く水琴窟の音色を聞きながら味わっていたのでした。
横田南嶺