そろそろ仏教にふれよう
それが、なんと古舘伊知郎さんとの対談本だというのです。
「ええ、あの古舘さんですか」と思わず聞いてしまいました。
古舘さんがとても熱心に仏教を学ばれているということを、その時に私は初めて知りました、
PHP新書での出版です。
PHP研究所から、佐々木先生の御依頼でその本をお送りいただいたのでした。
早速一読してみました。
カバーには、
釈迦の教えにふれれば、
自我の肥大を抑えられる
プロレスやF1の実況で人気を博した古舘氏は、
なぜ人生後半で仏教に熱中するのか。
老・病・死に向き合い、「生きる意味」を考えるうえで、釈迦(ブッダ)の仏教がヒントになる。
今の仏教界が見失ってしまった仏教の真髄は、釈迦の教えにこそあったー。
釈迦仏教の碩学である佐々木氏と、自我の抑制に勤しむ古舘氏が、穏やかな心で生きる作法について議論する。
現代人はなぜ
生きづらいのか?
本書の要点
身近な死を実感した古舘氏が
人生後半で出合ったのが仏教だった
日本では大乗仏教が浸透しているが、
本来の仏教は原始釈迦仏教
自我をなくしていけば、人生の苦しみが軽減される
老・病・死に直面する人生後半こそ、
ブッダの教えが効いてくる
釈迦の仏教は論理的な真理であり、
科学との共通点が多い
と書かれています。
この本は四つの章から構成されています。
第一章が、「人生後半、僕が釈迦の仏教に熱中する訳」という古舘さんの文章であります。
第二章が、「原始釈迦仏教編」で、古舘さんと佐々木先生の対談であります。
第三章が、「大乗仏教編」、そして第四章が「仏教と現代社会問題編」と、それぞれ佐々木先生との対談が載っています。
終わりに佐々木先生の一文があります。
本書のはじめに、古舘さんが語っている言葉があります。
「身内の死は悲しいし、老いや病気だって怖い。そういった悲しみや苦しみとどのように向き合うべきなのかー。
驚くことに、原始釈迦仏教にふれるうちに、そのヒントが少しずつ見えてきたのです。
世界にはキリスト教をはじめ、いろいろな宗教がありますが、僕が仏教に興味を持ったのは「苦しみから解放される」という教義に魅せられたからです。」
というのであります。
ここに書かれていますように、古舘さんが関心をもって求めているのは「原始釈迦仏教」なのです。
「原始釈迦仏教」とは、お釈迦様が説いた原始の仏教という意味でしょう。
これは、その後の仏教は、お釈迦様の説かれた教えとは、かなり離れたものとなってしまっているという認識がもとにあると察します。
私が学生時代に、お世話になった三枝充悳先生は、「原始仏教」という表現はなさらずに、「初期仏教」という言い方をなされていました。
「原始」というと、「未開」という意味が入っているから、あえて「原始」と言わずに、「初期」と仰せになっていました。
「原始釈迦仏教」というと、決して「未開」という意味ではなく、本来もともとのお釈迦様の仏教という意味でありましょう。
佐々木先生は、「釈迦の仏教」と表現されています。
そのあと、古舘さんは、ご自身が仏教に興味をもつようになったきっかけである、お姉様の死について語られています。
「身内の死は悲しい」というのは、お姉様の死に出会ってのことだったのです。
古舘さんが、三十一歳の時に六つ上のお姉様がガンにかかってしまったのでした。
手術をしてようやく元気になったかと思ったら、転移がみつかって四十二歳でお亡くなりになったというのであります。
三十数年前、お姉様のために、少しでも長生きをしてもらおうと一所懸命に努力されたようなのです。
しかし、古舘さんは今「ただ、姉の死に際して一つ悔やんでいることがあります。身内のエゴイズムで姉を無理に延命させようとしたことです。」
と本書の中で語っています。
そこでアメリカの小説家カート・ヴォネガット・ジュニアの言葉を紹介されています。
「善意への素晴らしい道は悪で敷き詰められている」という言葉です。
「どうしても姉に長く生きていてほしい。だから医者と一緒になって化学療法をすすめた」ということなのです。
決してこれが悪いということではないと思います。
お身内の偽らざる心情であります。
しかし、それを今エゴだったとご自身を見つめておられるのです。
本書は、原始釈迦仏教と大乗仏教との対比を明確にして説かれています。
古舘さんの独自の表現によって喩えておられます。
「釈迦の仏教では、生きる苦しみと真っ向から対峙しなければなりません。だから、ものすごく苦い。
釈迦の仏教が漢方薬だとしたら、大乗仏教はりんごジュースです。
大乗仏教には現世利益という楽しみが加味されているから美味しい。
漢方薬は苦いから、口あたりのいいりんごジュースが飲みたくなります。
でも、漢方薬はつねに服用していれば、完全には治らないけど免疫力が上がり、心身のバランスが取れていきます。」
というのであります。
たしかにもともとお釈迦様の仏教では、お念仏すれば阿弥陀様が救ってくださって浄土に生まれるという教えも、苦しい時に観音さまを念ずれば観音様が助けてくださるという教えはありませんでした。
阿弥陀様や、観音様は大乗仏教になって現われた仏様菩薩さまであります。
この本では、原始釈迦仏教と大乗仏教とがどう違うのか、どうしてそのような違いが現われてきたのか、古舘さんが佐々木先生に鋭く問うことによって明確にされています。
しかし、決して釈迦の仏教こそが素晴らしく大乗仏教がだめだということではありません。
佐々木先生もまた仏教の変遷を見据えた上で、大乗仏教の必要なことも説いてくださっています。
諸行無常や諸法無我、一切皆苦という真理を正しく知り、瞑想の修行によって苦しみから逃れるというのがお釈迦様の教えです。
それを学びながら、主観的な自分だけの宗教を持ってもいいのだと佐々木先生も語っておられるところもあります。
この本を読むと、お釈迦様の仏教がそもそもどんな教えだったのか、どうして今のような大乗仏教へと変遷してきたのか、そしてそれぞれの特徴がよく分かります。
それからお釈迦様を「推し活」されているという古舘のさんの「一人ひとりが自我を少しずつ削り取っていけば、もっとふわっとした良い世の中になるはずです。だから僕は、釈迦の仏教を精神的な拠り所、抱き枕みたいにしているのだと思います」というお気持ちがよく分かるようになります。
PHP新書の『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』をお勧めします。
横田南嶺