良き習慣 – 神仏習合 –
「戒」とは「良き習慣」だと申し上げています。
良き習慣は、個人の行いだけではありません。
毎年七月には、北鎌倉にある八雲神社の大祭があって、御神輿が出ています。
今年は、七月二十一日に御神輿の渡御がございました。
御神輿は円覚寺・明月院・建長寺を通って、浄智寺・東慶寺を巡ってくるものであります。
はじめに円覚寺の前を通り過ぎるので、その時には、円覚寺では管長が鎌倉街道の傍まで出て御神輿をお出迎えする風習が残っています。
こういうのも「良き習慣」だと思います。
私も管長に就任して十五年になりますので、折々の思いがございます。
東日本大震災の年の御神輿も忘れられません。
震災があって、日本国中自粛の雰囲気がある中で、いつもと変わることなく御神輿が出たのは感動したものでした。
変わらざる行事というのが、生きる力になるのだとその時に思ったものです。
それからコロナ禍では、いろいろと苦労がありました。
御神輿を担ぐのは、密になるというので、御神輿を車に乗せて行列するという年もありました。
こうしていつものように変わりなく御神輿が出るというのは、それだけで有り難いと思うのであります。
ただお迎えするといってもその時には、管長として正装してお迎えするので、少々暑いものです。
曲ロクという独自のイスに座って、大きな朱の傘をかざしてもらってお迎えします。
神様のお祀りと、仏教とがお互いに敬意を表す尊い習慣であります。
例年と変わりなく行ったのですが、今年は、観光の方が少ないと感じました。
円覚寺の池のところに、管長が正装して坐っていると、観光客の方が写真を撮られるものです。
それには慣れていましたが、今年はいつもよりも観光の方が少ないと感じました。
少ないというよりはほぼ見受けなかったように感じます。
それはこの暑さだと思いました。
かなりの厳しい暑さなのです。
この暑さの中御神輿を担ぐのはたいへんだろうなと思いました。
それから宮司さんも正装して御神輿と共に歩かれますので、これもたいへんだろうと思います。
面掛行列という方もたいへんだろうと思いました。
こういう習慣も日本にある「神仏習合」のひとつの形だろうと思います。
「神仏習合」について、岩波書店の『仏教辞典』には、
「日本古来の神信仰が新たに伝来した仏教と接触することによって生じた、思想・儀礼・習俗面での融合現象。」とあります。
詳しく調べてみると、
「奈良時代には、神を仏教による救いの対象と捉えて、その救済実現のために神前納経や神宮寺の建立が行われた。
また、神は仏法を守護するという護法善神説もみられた。
平安時代に入ると、仏・菩薩が仮の姿をとってこの世に出現したものが神であるとする、<本地垂迹説>が登場する。
本地垂迹説は、仏・菩薩が権(かり)に現れたものという意味で神を<権現>と呼んだり、「八幡大菩薩」(八幡神)のように神に<菩薩号>を奉ずる段階を経て、平安後期には個々の神に本地が比定されるようになり、中世ではほとんどの神について具体的な<本地仏>が定められた。」
と書かれています。
思えば、私は熊野三山のひとつである熊野速玉大社の門前で生まれ育ちましたが、地元では速玉大社のことを、親しみをこめて「ごげんさん」と呼んでいました。
逆に「反本地垂迹説」というのもあります。
それはどのようなものかを調べてみまと、。
「仏本神迹・仏主神従の<本地垂迹説>とは反対に、神道を優位に置いて神本仏迹・神主仏従を主張した神仏習合思想。
本地垂迹の思惟方法に従いながら、本地としては仏のかわりに神を立てたのである。なお、<反本地垂迹説>とは昭和時代の学者の命名である。」
と説かれています。
そのように「本地垂迹」「反本地垂迹」といろいろあれども、神仏習合は日本の良き習慣でありました。
それが明治になって「神仏分離」ということが行われるようになりました。
「神仏分離」について調べてみます。
「明治のはじめに維新政府がとった、神道と仏教を分離する政策。
神道の国教化と、神孫としての天皇の宗教的権威確立のため、1868年(明治1)3月から諸社に対して下された、
社僧の還俗強制、仏像を神体とすることの禁止、社頭からの仏具の除去、神職に対する神葬の強要、などを内容とする一連の指令をいう。」
というものです。
政府が指示したのは、あくまで「神仏の分離」だったのですが、『仏教辞典』には、
「この神仏分離令は全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、多数の文化財が破壊され膨大な廃寺が生じたが、真宗を中心とする仏教界の反対を受けて、政府も沈静化を目指した。」
と書かれています。
「廃仏」について調べると、
「国王や政治権力が仏教を弾圧し、廃止すること。<破仏>や<排仏>ともいわれ、また仏教の側からは<法難>とも呼ばれる。」と解説があります。
「日本では二度の廃仏が有名である。
一つは、6世紀に仏教が公伝したさい、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争い、一時、廃仏派の物部氏の主張が通って、廃仏がなされた。」ものです。
「しかし、以後は、仏教は大筋において保護され、江戸時代には、キリスト教を恐れる幕府によって庶民もいずれかの寺院の檀家(だんか)にされ、仏教は国民宗教化していった。
もう一つの廃仏は、1868年(明治1)の神仏分離令を契機に行われたもので、廃仏毀釈といわれる。
神仏分離令は、神仏習合の寺社から、神と仏を分離し、神道を国教化することに狙いがあった。」のでした。
廃仏毀釈について「この運動のもっとも激しかった代表的な地域は、薩摩藩・松本藩・富山藩・苗木藩・津和野藩、伊勢の神領、隠岐・佐渡などである。」と書かれています。
薩摩での廃仏毀釈は苛烈を極め、明治初期、寺院と僧侶が完全消滅していたというのです。
廃仏毀釈では、奈良の興福寺の五重塔も破却されるところでした。
今国宝となっている五重塔です。
現在の興福寺五重塔は5度の焼失を経て鎌倉時代に再建されたものです。
この五重塔は解体費用がかかるとのことで、民間に売却されることになりました。
随分安い金額で売り払われたのでした。
五重塔の買主は、塔に使われた金属を取り出すことを目的としていたというのです。
五重塔に火を放てば金属だけを採取できると考えたようです。
周辺に類焼する可能性があるとして住民が反対したので、燃されることは免れたのでした。
鎌倉の鶴岡八幡宮にも仁王門や、経蔵、鐘楼、多宝塔などがあったのでした。
それらは悉くその頃に壊されてなくなりました。
多宝塔は十間四方の大塔で、当時は大仏と共に鎌倉の三名物と言われていたそうなのです。
愛染堂もあって、愛染明王がお祀りされていたそうですが、この愛染明王はただいま五島美術館にございます。
いろんな歴史の変遷がありましたが、神仏習合というのは日本に於ける良き習慣だと思うのであります。
横田南嶺