『無門関』への思い
「初めて触れた禅の書物が『無門関』でした。
初めて書店で注文した書物が『無門関提唱』でした。
修行道場で初めて講義した書物が『無門関』でした。
管長に就任して初めて夏期講座で講義したのも『無門関』でした。
『無門関』の漢文に心躍らせ、暗誦し、書き写し、幾度も講義してきたのでした。思うに、我が人生はこの『無門関』と共にあったと言ってもよい気がします。」
というものです。
その詳しいいきさつについては、本書のまえがきで書いておいたのでした。
そのあと、
「『無門関』という禅の代表的な書物と思い込んでいましたが、近年ディディエ・ダヴァン先生の研究によって、いろんなことが明らかになってきました。
ダヴァン先生の著書『帰化した禅の聖典 『無門関』の出世双六』(平凡社)のカバーには、「自国ではほぼ無名なのに海外でブレークした俳優や歌手がいるように、『無門関』は中国生まれながら、尊敬される禅籍の地位に上がったのは日本に来てからであった。…」と書かれています。
ダヴァン先生の本によると、『無門関』を著した無門慧開禅師は、時の皇帝理宗から金襴の法衣と仏眼禅師の号を賜ったほどの方でありますが、『碧巌録』の圜悟克勤禅師や、『従容録』のもととなる百則の頌古を著した宏智正覚禅師ほどの評価はされていなかったようなのです。
理宗に召されたのも宮中に雨乞いの儀礼を行わせる為であり、祈祷してまもなく雨が降ったので、金襴の袈裟などを賜ったのでした。」
と書いておきました。
ディディエ・ダヴァン先生には小川隆先生のご縁で、何度かお目にかかっています。
ダヴァン先生の著書には、
「『碧巌録』と意地悪く比べてしまうと、『無門関』がどれほど知られていたのか心配になってくる。
一言で答えてしまえば、ひっそりと潜伏していたと言える。
具体的には、中世の禅僧の作品などに『無門関』は時々言及されているが、作成された厖大な中世禅僧の書籍からすると、その記述はほんのわずかと言わざるを得ない。
虎関師錬 (一二七八―一三四六)によって著された最初の日本仏教史書とされる『元亨釈書』には、無本覚心の伝記があり、そこに当然ながら『無門関』を伝来したことが記されている。
しかし、いわゆる「五山文学」のなかに探しても、無本覚心に関する記述のついでに『無門関』の名が見られるのは、管見のかぎりでは三、四ヶ所ほどしかない。
その一方、同じ五山文学で『碧巌録』に関する記述(正確には『碧巌集』として記されることが多いが)を見るとやはり多数であることが確認できる。
しかも、『無門関』は無本が持って帰った書物としてしか登場しないのだが、『碧巌録』は読まれているテキストとして登場する。
ここでも、『碧巌録』と比較すると『無門関』の慎ましさが際立つのである。
まとめると、『無門関』は中世前半に存在していたのは間違いないが、地味な存在であったと言わざるを得ない。」
と書かれています。
鎌倉時代にはほぼ無名だった『無門関』だったらしいのですが、それが室町の末期以降に幻住派という一派と曹洞宗において重視されていったというのです。
禅の修行の中心的な禅籍となっていったのでした。
寛文六年(一六六六)に刊行された『鼇頭無門関』は、本文の上部の空白に註釈がぎっしり書かれているものです。
私も修行道場では、この『鼇頭無門関』を用いて講義をしたのでした。
私の『無門関に学ぶ』のあとがきにダヴァン先生の御高著について触れているので、ダヴァン先生にも本を謹呈させてもらいました。
ダヴァン先生からご丁寧なお礼状を頂戴しました。
私などは、単に自分自身の体験から思い入れを持ってしまっているのですが、やはり学問的な考証も大切にしないと本質を見失ってしまいます。
白隠禅師が趙州の無字を工夫されたことや、ご自身も趙州の無字を用いて指導されたことなども、これは『無門関』の第一則にあるからではなく、大慧禅師以来の看話禅の公案だからであった、『無門関』からの影響であるとは決して言えないというのは、新たな学びでありました。
明治以降は釈宗演老師や南天棒老師の提唱が刊行されて多くの参禅者のよすがとなったものです。
山本玄峰老師の『無門関提唱』は、もっとも提唱らしい提唱といっていいでしょう。
それはまさしく玄峰老師が、ご自身の修行体験から読み込まれたものなのです。
よく提唱というのは、単なる講義とは異なって、師家が自身の体験を披瀝するものだと言われますが、その通りなのであります。
玄峰老師の無門関は、禅の修行のよすがとなる書物であります。
私も中学の頃、この本を書店で注文して購入して、いつも座右に置いて坐禅していたものでした。
また、多くの参禅者に力を与えたものでしょう。
飯田欓隠老師の『無門関鑚燧』も修行者にとっては有り難い書であります。
美術品などでもかつて無名だったものが、後に有名になることもあるものです。
いろんな変遷があるのが、自然なのでしょう。
私も『無門関に学ぶ』を上梓して、『無門関』はより一層特別な思いのこもった書物となったのでした。
横田南嶺