悟りを求める迷い
「如何んが大涅槃得ん。
師曰く生死の業を造らざれ。
対えて曰く、如何なるか是れ生死の業。
師曰く、大涅槃を求むる是れ生死の業。」
というものです。
生死と涅槃とは対句で使われるものです。
迷いに対して悟りというようなものです。
涅槃を悟り、生死を迷いとすれば、訳するとこうなります。
どうしたら悟りが得られますか。
迷いの行いをしないことだ。
迷いの行いとはどんなものですか。
悟りを求めることが迷いの行いだ。
悟りを求めるのが迷いだと言ってるのです。
迷いと悟りについて、私が次のように書いたことがありました。
随分以前のことであります。
「迷いと悟りの違いとは何でしょうか。
迷っている人も悟っている人も外から見たら同じように道を歩いている。
悟った人は今こうして歩いているものこそ仏であると気が付いて喜んで歩いている。
一歩一歩を、喜びをかみしめて歩きます。
それに対して迷っている人というのは、こうして一生懸命に歩いていけば、そのうちどこかに悟りがあるかしらと思って歩いている。
外から見たら同じように見えますが、その心の有り様によって迷って歩いているのか、悟って歩いているのかの違いだけの話なのです。
今、こうして歩いているものが仏の命そのものである。
今、こうして一呼吸一呼吸しているものが仏の命そのものである。
今、こうして話を聞いているものこそ仏の命そのものであります。
このように気が付いてそれ以外に自分の外に仏だの悟りだというものを求めることがないことが大切です。
もし、とりわけ特別なことをして仏に成れると思ったならば、たとえば、念仏をしたら、やがて仏に成れるや、一生懸命写経をしたならば仏に成れるなどというように、それらはみな、あくまで本心に気が付き目覚める為の行(ぎょう)であるということを知らねばなりません。
坐禅であろうと写経であろうと念仏であろうとみな本心に目覚める為の一つの行であり、それ自体にとらわれてしまっては本末転倒になってしまいます。
どれだけ長い時間坐ったら仏に成れるとか、どれだけお経を書いたらば仏に成れるとか、どれだけ念仏を唱えたならば仏に成れるとかいうようにその行にとらわれて仏を求めたならば、その素晴らしい本来の仏ですら迷いの張本人となってしまいます。」
というものです。
なかなか難しいものです。
都内のイス坐禅の会もおかげさまで毎月一回で、十二回終えることができました。
好評ですので、更に来月も続けてゆこうと思っています。
アンケートを拝見してもほとんどの方がとても満足してくださっているようですが前回初めて不満足という回答がありました。
坐禅までの時間が長すぎるというのでした。
この方は長く坐って悟りを求めたいのだと思いました。
じっと坐るのが悟りに到る聖なる修行で、肩や首をほぐしたり、足の裏をもんだりするのは余計なことなのでしょう。
馬祖禅師にこんな問答があります。
「問い、「昔から誰もが <即心是仏> (心そのものが仏である)と申しておりますが、一体どの心そのものが仏なのでありましょうか。」
答え、「君にはいくつの心があるのかな。」
問い、「凡心そのものが仏なのでしょうか、聖心そのものが仏なのでしょうか。」
答え、「いったい君のどこに凡聖の心があるというのだ。」
問い、「げんに三乗の教えのなかに、凡と聖があると説いてあります。それが無いなどとは、和尚さまには言えないはずです。」
答え、「三乗の経典に、はっきりと君に向かって言うてある、〈聖の心は妄である〉と。
それが君にはいまわからず、かえってその心を実体のあるものと考え、空なものを実としておる。
それこそ妄というものではないか。
妄なるがゆえに心を見失っておるのだ。
そんな凡情や聖境を取りはらってしまいさえすれば、心の外に別の仏はありはせぬ。
祖師ダルマは西方から来られて、一切の人間はそのままそっくり仏であると直示なされた。
そのことをいま君は知らずに、凡心に拘われ聖心にかかずらって、おのれの外を駆けずり廻り、あいも変らず心を見失っている。
だからこそ、そういう君に対して、心そのものが仏だと説かれたわけだ。
ちらりとでも安心が起これば、たちまち地獄に落ちることになる。」
というものです。
また馬祖禅師は、
「道は修習する必要はない。
ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。
もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。
もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。
何をあたり前の心というのか。
ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。」
「今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。」とも仰せになっています。
当に小川隆先生が『禅思想史講義』の中で
「「即心即仏」といっても「仏」と等しき聖なる本質が心のどこかに潜んでいる、というのではありません。
迷いの心を斥けて悟りの心を顕現させる、というのでもありません
己が心、それこそが「仏」なのだ。
その事実に気づいてみればいたるところ「仏」でないものはない。
現実態の活き身の自己のはたらきは、すべてそのまま「仏」としての本来性の現れにほかならない」と示してくださっている通りです。
坐禅と体操の時間を分けて、坐禅は聖なる修行、体操はどうでもいいと分ける考えが迷いそのものです。
むしろ悟りを求める心が妨げとなっていると感じるのでした。
どんな動きをしていても全部坐禅なのです。
もっとも私などもそのように納得ができるまでに長い年月がかかったものでした。
掃除したり、ご飯の支度をしたりという雑事を早く片付けて坐禅しようなどと思っていたのでした。
今思えば掃除も炊事も皆坐禅なのです。
「坐禅までの時間が長い」とおっしゃった方も方もやがて、ああして動いていたそのすべてが実は坐禅であったと気がつく日がくるかもしれません。
横田南嶺