時にうれしいことがある
人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し
いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望みおこらば困窮したる
時を思ひ出だすべし
堪忍は無事長久の基
いかりは敵とおもへ
勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば
害其の身にいたる
おのれを責せめて人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
というものです。
「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くようなものだ」という言葉は、いつも胸に刻んでいます。
『論語』には、
「士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己れが任と為す、亦た重からずや。死して後已む、亦た遠からずや」
という言葉があります。
岩波文庫の『論語』にある金谷治先生の訳では
「士人はおおらかで強くなければならない。
任務は重くて道は遠い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」
となっています。
「任重くして道遠し」
こんな言葉を何度も何度も繰り返してきました。
三十五歳で修行道場の指導者になってからというものは、重荷を負う旅路となりました。
「任重くして道遠し」でありました。
四十六歳で管長に就任してからは、更にその荷が重くなりました。
それでもどうにか重荷を負うて十五年目になります。
更に花園大学総長、そして禅文化研究所所長と荷は更に更に重くなってきました。
大学の総長や、研究所の所長というと、有り難い名誉なことではありますものの、実際には重い任であります。
かつては山田無文老師が、長年大学の学長と禅文化研究所の所長を兼任しておられましたが、その当時と今では状況は大きく異なります。
とりわけ禅文化研究所に関しては、山田無文老師が創設されたので、創業のご苦労が大きかったと察します。
創立から六十年も経つと、状況は大きく変わります。
まさに人生は重荷を背負うて遠き道を行くようなものだと感じながら、僧堂で坐禅し本山の仕事をして、京都を往復しながら暮らしています。
仏典にはこんな喩え話があります。
「茫々として、見渡す限り何一つない荒野を、旅人がさ迷い歩き続けていました。
罪を犯して逃げていたのでした。
すると突如どこからか、凶暴な象が、旅人を見つけて、襲いかかってくるではありませんか。
荒野を逃げに逃げますが、象はなおも襲ってきます。
もはやこれまでかと観念したとき、目の前に空井戸がありました。
幸いなことに藤の蔓も垂れていましたので、その蔓にすがって井戸の穴に下りてゆきました。
さすがの象もここまでは追ってこられません。
やれやれと思っていると、井戸の底には大口を空けた大蛇が待ち構えています。
身を縮めて逃れて、井戸の中間にぶら下がっていました。
安心かと思いきやまわりに横穴が四つも穿いています。
横穴に飛び込もうとすると四匹の毒蛇が狙っていました。
まだ藤の蔓に捕まっているうちは安心と思っていると、カリカリと上で音がします。
見れば何と黒と白の二匹の鼠が藤の蔓を噛んでいるではありませんか。
終に命は風前の灯火と、観念したとき、藤の蔓に花から、一滴の甘い蜜が滴り落ち、旅人の口にポタリッと落ちました。
「何と甘い蜜だろう」と、その蜜の甘さに象も大蛇も毒蛇も二匹の鼠の事も忘れてしまっていたという話です。
広い荒野は、人生の旅路を表わします。
象は無常を表わします。
迷える旅人は、凡夫です。
藤の蔓は生命の糸です。
大蛇は死を表わします。
四匹の毒蛇は、苦悩を表わします。
白黒の鼠は、昼夜の時です。
そして最後の甘い蜜の滴りは、人間の五欲の楽しみを表わすのです。
なんとも救いようもない話でありますが、これが人生だというのです。
苦悩の中で、蜜のしたたりに苦を忘れるというのです。
私なども重荷を背負って長い道を歩む思いなのですが、ときに嬉しいことがあって、旅の苦を忘れることがあります。
この度春秋社から出版した『はじめての人におくる般若心経』が更に増刷されることになりました。
嬉しいことです。
それから先だって麟祥院で小川隆先生から御高著『臨済録のことば 禅の語録を読む』を頂戴しました。
この本は、二〇〇八年に岩波書店から『臨済録 禅の語録のことばと思想』として出版されていたものです。
それがこのたび講談社学術文庫として出版されたのです。
カバーには龍雲寺様所蔵の白隠禅師の達磨大師のお顔が載っています。
学術文庫になるにあたって、「学術文庫あとがき」が新たに巻末に書かれています。
カバーの達磨像にこめた思いも語られています。
そして今回更に、参考文献が加えられています。
参考文献(補)を見ると、なんと私の『臨済録に学ぶ』が紹介されているではありませんか。
本書から引用しますと、
「『臨済録』については、最近、とても良い入門書が出た。
⑧横田南嶺『臨済録に学ぶいかに自己を創り上げるか』 致知出版社、二〇二三年。
著者は円覚寺の管長。当代を代表する傑出した現役の師家のひとりだが、宗門の伝統に自足することなく、最新の学問研究の成果を的確かつ柔軟に援用しながら、現代に活きる宗教の書として『臨済録』を活き活きと講じている。
やさしい語り口で誰にもよく解るように書かれているが、内容は深い。」
と書いてくださっています。
自分で読むと恥ずかしいものです。
私の本は学術書ではないので、このようなところに参考文献として掲載されるようなものではないのですが、恐縮しました。
そして思ったのでした。
人生は重荷を背負って長い旅を行くようなものだけれども、時にその苦を忘れるようなうれしいことがあると。
参考文献は、私の本が載っているのは余計ですが、読んでいるとここ最近の禅学の研究がどのように進捗しているのかがよく分かって、大いに参考になるものです。
横田南嶺