五つの眼
「般若経および『大智度論』33、39-40によれば、菩薩は初発心のとき<肉眼>で世界の衆生の苦患を見、次いで<天眼>を得て六道の衆生の身心の苦を見、<慧眼>を得て衆生の心相の種々不同なるを見、<法眼>を得て衆生を導いて法中に入らしめ、十地を経て金剛三昧に入り無礙解脱を得て<仏眼>を生じ仏となるという。」
と解説されています。
これについて椎尾弁匡僧正の『仏教の要領』にある解説が素晴らしいので一部を紹介します。
「今、肉眼(にくげん)を説明するに當つて、次にその大要を述べて、その意義を明かにする。
(一) いやいや働くものー労働ー獄道ー奈落地獄
提婆等が妄語誹謗の大罪で、八寒地獄に堕ちる話が傳えられ、更に八熱、十六大獄、三百六十地獄説話とも拡大したものである。
(二) わからず働くものー盲働ー牛馬ー畜生ー傍生
牛馬が目的も辨えず牽かるる儘に荷を運ぶが如く、盲働するものを畜生とした。この一類が流轉轉生の思想と結合して、禽獣虫魚一切の傍生類を列ぬることとなつて、後世複雑化するものとなった。
(三) 働かず欲するものー懈怠ー餓人ー餓鬼ー鬼趣
目連の神通物語として荒地に餓鬼の彷徨う説話は比較的早く達したが、世相としては懈怠にして貪欲大なるものを一類として餓鬼とするのが根本である。
前の勞働・盲動と慳貪とが、人間生活の三悪相と考えられ、これが未来神話説と附されて、所謂後世の三悪道思想となつたものである。
後世説話としては、たゞ信する形式しかないが、現見の事實肉眼現量がその根據をなすものである。
(四) 欲で働くー妄欲ー五欲道ー人道
人間普通一般の相として人道という。
眼に好き色を求め、耳に可愛の聲、鼻に好き香、舌に甘き味、身に感觸よきものを求めるを云う。
更には又、働けばよく睡り(睡眠)、甘く食い(飲食)男女の愛を得(色)、譽められ(名)、儲かる(財)の五欲とも云う。
欲で働く一群を云うのである。
(五)争い働くー妄情ー修羅道
修羅は天帝釋と争うものとの神話的物語が、古經より傅えられている。
食わず、飲まず、寢ず財を盡くして働く、喧嘩・賭博・訴訟・競技・戦争等を専らにする一群を云うのである。
五趣説の場合はこれを鬼趣人天に分属して別立しないのである。
(六) 働かず欲なきものー安分天
社會には既得の地位・財産・名譽等に滿足して、働かぬ隠居や或いは無一物に満足するものがある。
これらの一群をいうのである。天とは蒼々たる天空をいうのではない。
吠陀以來印度神話に現われる諸神をいうのである。」
と書かれています。
肉眼によって見られるこの世の有様が六道なのですが、とても分かりやすく表現してくださっています。
いやいや働くもの、これが地獄。
わからずに働くもの、これが畜生。
働かずに欲するもの、これが餓鬼、
争い働くもの、これが修羅
欲で働くもの、これが人間。
働かず欲無きもの、これが天上界。
というのであります。
天眼(てんげん) とは第六意識身の世界、即ち心の眼である。
經濟・學問・政治・道徳・藝術・宗教等の世界を言います。
慧眼とは、般若の眼であります。
この慧眼の解説もまた深い内容なのであります。
「水は水素と酸素とによつて出来るという考え方は、限定された考え方である。
若し水素幾程で何程の水となるかということであればより定量的であり物的な考察である。
しかし、水ここにあることは單に原素だけの關係ではない。
コップあり、水差あり、これを持参する人がある。
容器や運ぶ人間等の條件を擧げ来れば、そこに不定量の若干の原因を列することができる。
物質的考察は不定量でよいが、精神關係は一層複雑で種々の要素條件が入つて来る。
しかし結局之等は有限的考察に止まるもので、眞實相には相應しない。
コップがあるのは、無數の條件に包まれてあるので、全宇宙のいわば總合的進動闘係によつて成立するものであるところからは、大小種々の形があつても各々が全宇宙を完うするものであり、その意味において各々は平等のものである。
大小、高低、廣狭、それぞれ差別した見地は今や失われて、一切は平等となる、一も特定の原理によつて支配されないが故に、何れも特別のものとして取扱うことは出来ぬものである。
そこには差別も、個在もない。
別々の存在ではないが故に、非有であり空である。
かかる平等觀の考察に至ることを、般若が開かれるというのである。
迷の世界から超出する第一の眼が、この慧眼となるのである。
我が心、我が身としたものは、我の我とすべきものはなく、身心悉くはこれ天地の大なる顯現であり、宇宙一切が總合關係し感應する作動となる。
自己のものとなる何物もない。
呼吸なければ、一塊の肉團となる。
その呼吸も遙かに草木に通じ、一呼吸も我が發明努力するところの結果ではない。
呼吸は天地の大作用であつて、我が呼吸ではない。
かくの如く、飲食も言語も、動作も、思想も、われがよくなし得るところのものではない。
皆すべては、自然社會の總合し育成する因縁和合のものである。
このことに氣づいて、釋尊の第一眼が開かれたのである。
自我とせる執縛の無明(むみよう)は破れて明星輝き、自我に基づける邪見思惑は除去せられて、勇ましき活躍感謝の奉仕を感じたのである。
この慧眼によつて現出する世界が、実相の世界であり、一如の世界であり、空の世界である」
法眼はこの慧眼によって法を見るところから現れる世界です。
仏眼は、無限の慈愛をもって、仏が一切衆生を悉く我が子とする世界を言います。
無限の大慈悲の世界です。
五つの眼からも仏教を学ぶことができるのであります。
横田南嶺